疎開の対象に指定された地区の住民にはどのような補償や援助があったのであろうか。
まず建物本体の価格、借家の場合は工作物、店舗の場合は商品の補償、さらに移転費用や立退料が、東京都疎開事業損失補償審査委員会による査定額に基づいて審査・決定され、その承諾書が交わされた。また、縁故により地方へ移転することが推奨されたが、職業上の都合から難しい場合は、住宅が優先的に斡旋される制度となっており、その準備のため、空家はすべて届け出が義務付けられ、無断で貸与すると罰則が科された。
港区域の芝・麻布・赤坂の各区については、建物疎開事業に関する行政資料が膨大に残されている。ただし、全体を照合できる状況になく、残存状況は正確に把握できていない。本区史編纂にあたり、部分的な調査で明らかになった、疎開事業の行政手続きの実態を示しておきたい。
まず疎開地区に指定された範囲の建物には一棟ずつ「建物調査票」が作成された。この申告内容に基づき、建物価格の査定が行われた。また、世帯ごとに「疎開地区居住者調査票」が世帯主により記入され提出された。
昭和二〇年(一九四五)二月に芝区建物疎開事業所が作成した「秘」扱いの「芝区建物価格調査書」には、疎開対象となった七か所の地区と芝浦埠頭施設、芝区内間引疎開の九区分に含まれる疎開建物の構造などとその建物査定価格が一覧となっており、これが審議された形跡が見られる。価格の一例を示すと、芝区内の間引疎開の対象となった一五八棟、二二五戸は、総計三六九〇・四五九坪で六九万九八八〇円六五銭。平均は一棟あたり四四二九円六〇銭、一坪あたり一八九円六〇銭となっている。このうち、最高額は元料理屋の事務所(居住中)で、山(ママ)州産両面磨瓦、檜・杉材の木造三階建てで外壁は板張り、内装は漆喰塗り、床は畳敷き檜縁甲板張りの数寄屋造りで六四坪。経過年数七年、坪当価格五五〇円と評価され建物総額は三万五二〇〇円となっている。一方最低価格は、作業場の物置(使用中、貸家)で、杉材の木造平屋、壁は板張り、床は板張りおよび土間で二〇坪、坪当価格四〇円の評価で、金額八〇〇円となっている。
建物の査定に加えて、立退料や店舗の商品などの補償が加算されて最終的な補償額が提示されることとなる。
以下では建物を所有していない場合の例として、芝区白金台町の、ある借家住まいの「無業」の一家の移転を例に、その手続きを見てみよう。
まず昭和二〇年二月二日「占有者所有物件申告書」に占有七坪、家族四人(計五人)、家賃六円九〇銭および工作物(電灯、防空壕)を申告している。白金台町一丁目町会長の証明を受けた世帯員数を記載した二月六日付の「家族証明書」が添えられている。これに基づき区の担当者は「建物工作物調査票」で工作物を計三七円と査定した上で、「占有者移転補償調書」を作成し移転費・営業等補償費・工作物補償費を合算した五〇二円の査定額を定めている。
この額を提示された占有者は二月一一日付で「工作物移転料其他一切之損失補償」を五〇二円で承諾し異議を申し立てないことを記した「承諾書」に署名捺印し、二月一五日までに退去することも併せて承諾している。そして二月一四日付で、移転先の町会長の証明を受けた「移転完了届」を芝区建物疎開事業部長宛に提出して手続きは完了となる。この一家は、同町内に移転した。
補償額がどのようなものなのか、立ち退きを迫られた住民は戦々恐々とさせられたことであろう。二五万円で売却を検討していた麻布霞町のアパートが、疎開の対象に指定され、補償額が五万円と宣告された家主が「驚愕のあまり発狂」したという話が、永井荷風(一八七九~一九五九)の『断腸亭日乗』(昭和一九年七月一三日)に登場するので、その額は決して歓迎されるものではなかったと考えられる。
なお所有地の場合、立ち退き後の土地は都による買上げか借地権を設定することとなった。貸し付けの場合は「土地借入台帳」が作成され、借地料の支払いが管理された。その支払いは戦後も継続され、疎開地区解除により昭和二一年四月二〇日で支払いが終了している。 (都倉武之)