昭和一七年(一九四二)四月、いまだ戦勝気分にあった東京に冷や水を浴びせた、いわゆるドゥーリットル爆撃は、港区域には被害をもたらさなかった。しかし、それは前述の麻布本村町会資料にもみえるように、昭和一二年防空法制定以来進められていた地域社会の防空体制が、いつでも前線となりうる現実を示す出来事であった。そして昭和一九年七月のサイパン島陥落によって日本本土への長距離爆撃機B-29の来襲が現実のものとなってから、その緊張感はにわかに増し、現実に同年一一月二四日より本格的な本土空襲が始まった。
港区域に実質的な被害をもたらした最初の空襲は、昭和一九年一一月三〇日午前〇時一五分から二〇分にわたる、B-29二〇機によるもので、被害地域は日本橋区のほか、芝区では浜松町二丁目、宮本町、芝公園七号、栄町、麻布区では六本木町、飯倉片町、飯倉一〜三丁目に渡り、投下弾は爆弾三七個、焼夷弾二九二五個と記録されている。警視庁の記録によれば、人的被害は、死者〇、重傷者一、軽傷者七であったが、建物への被害としては全焼重要建物一棟(水交社被服部倉庫として使用されていた芝区栄町の聖アンデレ教会)のほか二六四戸、半焼三五戸、罹災者五八九名であった。
これを最初として、港区域に何らかの被害があった空襲を『新修港区史』は一七回と数えているが、資料によって異なり表4-3-3-1には一九回を挙げている。
なかでも区内に大きな被害をもたらしたのは、一般に「東京大空襲」と呼ばれる昭和二〇年三月九日から一〇日にかけての大空襲と「東京山の手空襲」と呼ばれる同年五月二四日から二六日にかけての二期にわたるものであろう。
表4-3-3-1 港区域の空襲被害一覧
注1)2月9日、5月23日は詳細の記録を欠く
注2)行方不明1を含む
東京都編『東京都戦災誌』(東京都、1953)、『港区史』下(1960)、『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編『東京大空襲・戦災誌』第3巻(東京空襲を記録する会、1973)をもとに作成