三月一〇日の大空襲

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 昭和二〇年(一九四五)三月一〇日未明、アメリカ軍のB-29爆撃機約三〇〇機がおよそ二時間にわたって低空より絨毯(じゅうたん)爆撃を行った。上野、浅草、深川方面に大きな被害をもたらし、都内でもとくに密集した住宅街と川で分断された地形が禍(わざわい)したこともあり、一晩にして約一〇万人の死者と一〇〇万人以上の罹災者を出したとされる。
 この日の空襲は港区域にも大きな被害をもたらし、なかでも芝区の被害が最も大きく、新橋、芝公園、田村町、愛宕町、西久保方面を焼失、死者は七七名、罹災者は一万名にのぼり、麻布・赤坂各区にも大きな被害が出た。
 その様子を克明に描写した記録として、永井荷風の『断腸亭日乗』がよく知られている。
 荷風は三月九日、二六年間過ごした麻布区市兵衛町(現在の六本木一丁目)の偏奇館(へんきかん)と呼ばれる洋館で就寝、「枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬ」ことに驚いて「日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出で」てみると、「谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北方の空にも火光の反映するあり、火星(ひのこ)は烈風に舞ひ紛ゝとして庭上に落つ」る様子に、到底焼失を免れないことを覚悟して避難する。しかし自邸への愛惜留めがたく、再び戻って炎上する偏奇館を眺めたという。
 
 余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎ゝとして燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり(永井 一九八一のうち昭和二〇年三月九日条)
 
 翌日焼け跡を訪れ、「嗚呼余は着のみ着のまゝ家も蔵書もなき身とはなれるなり」と記した。現在は東京タワーが建つ地にあり、文人や政治家が集った高級料亭「紅葉館(こうようかん)」が焼失したのもこの日であった。