山の手空襲

219 ~ 222 / 405ページ
 三月一〇日に次いで大きな被害を出したのが、五月二四日未明と、二五日深夜から二六日未明にかけての二日にわたるいわゆる「東京山の手空襲」である。
 三月一〇日よりも来襲機数、焼夷弾の量において一層徹底したもので、麻布・赤坂区はこれにより大半が焼け野原というべき状態になった。芝区も家屋の損失は五割を超え、芝増上寺の五重塔、徳川家霊廟、東照宮などが焼失したのもこの日であった。表参道方面で逃げ遅れた市民多数が安田銀行青山支店前で焼死した痛ましい惨状をもたらしたのもこのときである(北青山三丁目に追悼碑「和をのぞむ」がある〈図4-3-3-1〉)。港区域外においても宮城内宮殿や霞が関官庁街の焼失などをもたらした。
 全国最大の空襲罹災大学といわれる芝区三田の慶應義塾の被災もこの空襲によるものである。二四日に慶應義塾普通部校舎(現在の同中等部がある場所)の全焼など大きな被害があったが、二五日は東京有数のホールであった大講堂を焼失、現在修復され重要文化財となっている図書館も炎上した。その夜の緊迫した様子が当直にあたった教員によって生々しく記録されている。
 
 本塾第一次被弾アリシ二二時五六分マデニ屋上ヨリ東方ニ望ミ得シ敵機ハ約十七機ニシテ其ノ内六、七機ハ本塾上空ヲ通過シソノ東西側ニ大型焼夷弾ヲ投下セリ(中略)カクテ危険益々迫リツヽアリシガ第十三機ト覚シキ一機頭上ニ迫ル瞬間大音響ト共ニ南側兵舎、稲荷山一帯、旧万来舎跡、西側兵舎ノ一帯ニ猛烈火焔黒煙ヲ噴キ上ゲ瞬時ニシテ折柄ノ南々西ノ強風ニ煽ラレ三田山上ヲ火煙ノ裡ニツヽメリ、視界全ク不明トナリ屋上監視又危険トナリ監視員地上ニ撤退セリ。
 (中略)〇時一〇分頃西側兵舎モ焼落チテ火勢下火トナリ塾監局附近ノ火勢モ漸ク下火ニナリタルガ山上全面的ニ火粉ヲ吹キ撤(ママ)ラシ搬出中ノ荷物、屑籠、掲示板、柵、樹木等ニ着火スルモノ尠ナカラズ。此ノ時(二十六日〇時二〇分)第二次爆撃ヲウケ無数ノエレクトロン焼夷筒ハ新館西北側ヨリ図書館ニ至ル地域ニ落下、此ノ方面ハ一挙ニ全面的火災ヲ発生セシメラレタリ、(中略)大講堂、図書館八角塔、新書庫屋根等ヨリモ漸次火ヲ噴キ出シ(〇時三〇分以降)大講堂ニ於テハ其ノ火勢既ニ内部ニ充チタルガ如ク、一・〇〇時ニハ屋根焼ケ落チ同一五分全焼同三〇分ノ頃ニハ火勢下火トナレリ。
 (中略)特ニ本塾トシテ最モ不幸中ノ幸運ト思ハルヽモノハ第一次ノ大型焼夷弾(二五〇、五〇キロ〔五〇〇カ〕?)ガ木造建物ヲ襲ヒ、堅牢建物ニハエレクトロン焼夷筒ノ被弾アリシコトニシテ若シ之レガ逆ナリセバ其ノ災害三田本塾ノ全滅ヲ招キシコトト思ヒ慄然タルモノアリ。(奥井復太郎「三田本塾空襲戦災状況報告」慶應義塾福澤研究センター所蔵)
 
 高輪に邸宅があった高松宮宣仁親王の日記には、五月二六日の記述として、「夜半風アリ、B-29東京焼夷弾攻撃。火勢中々容易ナラザル模様ナリ。東京市内電話不通ニテうちト話通ゼズ」「伊皿子ヨリヒジリ坂ニカケテ立花〔種勝〕様ノ側スッカリヤケタ。赤坂ハ9分9厘ヤケタ。三笠宮デモドエライ煙デアッタ由。土蔵一ツノコル。大宮御所モオ手許ノオ文庫一ノミ残ル」などとある。
 翌二七日にも「秩父様、洋館マルヤケニテ日本館ト倉庫ノミ残ル。官舎モ運転手ノ二軒ノミ残ル。電灯、電話、水道、『ガス』全ク来ラズ。都電モ全ク不通、コレデハ帝都ノ機能殆ンド断タル」とあり、都市機能が深刻な被害を蒙ったことが生々しく伝えられている(図4-3-3-2)。
 しかし死者は東京全体で四〇〇〇名余りであった。もとより一名とて尊い人命であるが、三月一〇日の一〇万人と比較すれば極めて少ない。これは三月一〇日の空襲対象となった下町に比べ、山の手の住宅街が密集していなかったこと、起伏に富む地形から延焼が拡大しにくかったこと、防空法に基づく市民の消火義務よりも避難を優先するようになったことなどの要因が考えられる。
 以後区域内への本格的な空襲はほとんどなくなったが、最後の空襲は八月一三日、白金三光町で死者四名を出している。
 港区域の三区では、麻布・赤坂両区は罹災面積が七割を超え、芝区は三割弱に留まっている。しかし家屋の損失比率はいずれも五割を超え、最も高い赤坂区では八三・七パーセントに達している(『新修港区史』一九七九)。  (都倉武之)
 

図4-3-3-1 山の手空襲追悼碑「和をのぞむ」(令和4年〈2022〉)

図4-3-3-2 溜池の焼跡からアメリカ大使館を見る(昭和20年〈1945〉5月26日)
撮影 石川光陽