氷川国民学校『氷川学報』第一〇号国民学校制実施記念号には、学校長による記事として、「国民学校は日本本来の姿に基いて真の日本臣民をつくるための学校となされたのであります。従つてこれまでの学校のやうに単に個人々々の立身出世のための機関でもなく又物知りをつくるところでもありません」と国民学校の教育方針が述べられている。また、一年担当の職員の文章として、「学課について新制度第一年目である為と非常時下の為に教科書掛図その他教便物に不自由を感じました」など、国民学校令施行当初の様子が記されている。
戦時下の国民の健康・体力の向上は重要課題であり、国民学校令でも衛生養護を担当する教員である養護訓導の制度化や体錬科の時間数増加などが行われた。また、プールの設置校が増加し、港区域では、昭和一八年に芝浦国民学校、昭和一九年に飯倉国民学校、神明国民学校、御田国民学校がプールを設置した。国民の練成を目指す国民学校の教育は「啓発よりも訓練を重視する」とされ、筓(こうがい)国民学校では耐寒訓練遠足や剣道寒稽古、青山国民学校ではラジオ体操会や町会と合同した耐寒訓練体操、麻布国民学校では全児童および職員による乾布摩擦などの行事が盛んに行われた(図4-4-1-1、図4-4-1-2、図4-4-1-3、『港区教育史』一九八七ほか学校史)。
昭和一五年四月文部省訓令第一八号「学校給食奨励規程」が公布され、給食の目的がこれまでの欠食児童の救済から児童の「体位の向上」へと変更された。また、昭和一九年三月三日の閣議決定「決戦非常措置要綱ニ依ル大都市国民学校児童学校給食ニ関スル件」では、食糧難への対処だけでなく、空襲時には炊き出しに転用することも目的に学校給食が奨励された。これを受けて港区域でも、芝国民学校、麻布国民学校、筓国民学校、三光国民学校、青山高等国民学校がこの年学校給食を開始したが、青山高等国民学校の記録によれば「五月頃ニハ野菜不足ノタメ三多摩郡各国民学校児童職員ハ食料野草ヲ蒐集シテ多量寄贈ヲ受ケ好意謝スルニ余アリ」とあり、現場の苦労がみて取れる(『港区教育史』一九八七、『青山小学校沿革誌』)。
図4-4-1-1 有栖川宮記念公園での体操
九十周年記念誌編集部編『本村小学校創立九十周年記念誌』(1992)から転載
図4-4-1-2 筓国民学校の鍛錬のための寒稽古
東京都港区立筓小学校編『東京都港区立筓小学校七十周年記念誌』(1977)から転載
図4-4-1-3 飯倉国民学校の校舎と児童(昭和18年〈1943〉)
東京都港区飯倉小学校『わたしたちのまちと学校のれきし いいぐら』(1988)から転載