昭和初期に拡大していった幼稚園だが、戦局の悪化に伴い、昭和一九年(一九四四)、東京都から「公私立幼稚園非常措置ニ関スル件」により「当分ノ間其ノ保育事業ヲ休止セラルル様」に指示された。
もともと救貧対策の性格が強かった託児所は、戦時体制下で女性が動員されたためにその需要がさらに高まり、都市部では戦時託児所などが設置された。東京では昭和一八年に「東京市戦時託児所使用条例」が告示され、保育対象が広げられるとともに、保育料、保育時間なども変化した。昭和一九年、東京都により幼稚園の閉鎖が指示されたときには、保育継続を希望する幼稚園は戦時託児所へ転換するように促された(『東京都教育史』一九九七)。
麻布区では昭和一九年六月に戦時託児所に切り替えの申請をした幼稚園があったが、麻布区は「在園園児ノ家庭ハ何レモ中流以上ノ階級ニ属シ且ツ真ニ戦時託児所ニ倚託ヲ必要トスルノ家庭ハ殆ドナシ」とし、許可しなかった。当時麻布区内には、都立託児所は三か所、都立高等女学校内保育所が一か所、私立保育所が二か所存在していた(昭和一九年四月「幼稚園休止ニ関スル綴」)。 (柄越祥子)