高等教育の戦時体制化

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 昭和一五年(一九四〇)から高等学校や大学でも「皇国ノ道」が強調されるようになり、昭和一六年には戦争遂行の労働力や戦闘員の確保のため、高等教育機関の在学修業年限が短縮された。さらに昭和一八年一〇月二日勅令第七五五号「在学徴集延期臨時特例」が公布即日施行され、これにより、理工医学系の学生などを除き、徴兵年齢に達した者は検査を受け、一斉に入営するという、いわゆる学徒出陣が行われた。この措置により、慶應義塾では、大学学部(文・経・法)、予科、高等部から計四二六八名が徴兵検査を受けたとされる(『慶應義塾百年史』一九六四)。明治学院では、六九四名の在籍者のうち六〇パーセント以上が徴兵検査を受け、二〇〇名以上が入営している(『明治学院百五十年史』二〇一三)。一〇月二一日には神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が行われたほか、慶應義塾など大学でも独自の壮行会を行ったところもある。
 昭和一八年一〇月に東条英機内閣が閣議決定した「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって、理科系の拡充と文科系の縮小、転換が示された。このため、立教大学は文学部を廃止して在学生七名を慶應義塾大学文学部に、上智大学は商学部の学生五五名を慶應義塾大学経済学部に委託学生として編入させた(『慶應義塾百年史』一九六四)。また、明治学院は理科系の専門学校をもたず存続が危ぶまれたが、文部省より、青山学院文学部と同高等商業学部、関東学院高等商業部を統合するよう勧告があり、この統合により昭和一九年四月一日より明治学院専門学校となった(『明治学院百五十年史』二〇一三)。 
 人材確保を目的として、とくに昭和一五年以降、東京府立の高等教育機関が続けて誕生したが、芝区赤羽町にも昭和一八年に女子専門学校が開校した。この学校は東京府立第六高等女学校(現在の三田高校、図4-4-2-1)に併設され、学科は数学と家事で、学則によれば「国体観念ノ啓発」に努め、「時勢ノ動向ト国家ノ進展トニ適応シテ其ノ天職ヲ全ウスルニ足ル皇国婦人ヲ錬成」することを目的とした。夜間の授業形態を特徴としたが、昭和一九年には昼間部も新設されている(『東京都教育史』一九九七)。
 

図4-4-2-1 東京府立第六高等女学校の正門
中熊清ほか編 『三田高校40年の歩み』(1963)から転載