恐慌の時期を除き、昭和初期には中学校に進学する者が増え、東京府内には府立中学校が次々と新設されたが、港区域でも赤坂区に第十五中学校(昭和一五年新設)、麻布区に第二二中学校(昭和一七年新設、翌一八年城南中学校となる)が新設された。昭和一八年(一九四三)、勅令第三六号「中等学校令」が出され、中等学校は「皇国ノ道ニ則リテ(中略)国民ノ錬成ヲ為ス」ことを目的とし、中学校、高等女学校、実業学校をこの法律のもとで一元化した。同時にこれらの学校の修業年限も短縮された。
港区域では、これまで東京市立の商業学校や工業学校が設立されてきたが、戦時体制の強化に伴い工業教育に重点が置かれるようになった。とくに昭和一八年以降は商業学校の工業学校への転換や併合が行われた。赤坂区の青山高等国民学校は商業科を廃して工業科を置き、芝区の慶應義塾商業学校では昭和一九年度から生徒募集を停止し、同商工学校とともに慶應義塾工業学校に移行(『慶應義塾百年史』一九六四)、高輪商業学校は昭和一九年度の新入生の募集を停止し観海工業学校を設立した。(『高輪学園百年史』一九八五)。また、昭和一九年には東京都立赤坂商業学校と渋谷商業学校女子部が統合され、赤坂女子商業学校となった。東京市立京橋商業学校は、昭和五年に芝区内へ移転後、昭和一四年に東京市立芝商業学校、昭和一八年に東京都立芝商業学校と名称を変更し、商業高校として戦後まで引き継がれた(『港区史』一九六〇)。