勤労動員

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 昭和一二年(一九三七)、国民精神総動員の名のもとに始まった学徒の労働奉仕は、翌年勤労作業の時間を授業に振り替えるようになり、徐々に恒久化し、正科に準ずる取り扱いとなっていった。各学校で報国団が設立、組織化され、昭和一九年三月には閣議決定「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」により、それまでの「一年につき概ね四か月」から「通年動員」の態勢となった。
 赤坂区の都立第十五中学校は、日本製鋼所武蔵製作所に昭和一九年五月一五日から五年生の約二〇〇名が派遣され、「全員が京王線中河原町駅の多摩川べりの工場の寮に宿泊しながら」旋盤や平削り盤などでの作業を行った。極寒深夜まで続く作業で、手の薄皮が剥けることもあったという(『東京都学徒勤労動員の研究』一九九九および『東京都立青山高等学校創立四十周年記念誌』一九八〇)。
 芝区の第六高等女学校の五年生、慶應義塾普通部の四年生一〇〇名は、沖電気工業品川工場へと派遣された。また、岡田乾電池(のちの東芝電池)に動員された第六高等女学校の三年生は、風船爆弾に使う乾電池の生産に携わった(『わたしたちの昭和史』一九八八)。私立の高等女学校では勤労動員が強化された昭和一九年以降、学校工場を開設し、学校内での勤労作業が行われた。森村学園女子部は東芝小向工場の委託工場を学校内で実施し、聖心女子学院では東北電気無線の社長との協力で専門学校全校舎を学校工場とする設備を整えた。東洋永和女学校(現在の東洋英和女学院)では、沖電気芝浦工場が学校内に工場を開設した(図4-4-2-2、図4-4-2-3)。
 

図4-4-2-2 東洋永和作業所玄関での集合写真
「沖電気株式会社東洋永和作業所」の看板がみえる
東洋英和女学院史料室所蔵

図4-4-2-3 東洋永和学徒勤労挺身隊の腕章(沖電気)
東洋英和女学院史料室所蔵