キリスト教学校の苦難

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 昭和一五年(一九四〇)、基督教教育同盟会加盟校による校長会議が開かれ「学校長、学部長、科長等は日本人たること。学校経営主体は財団法人たること。財団法人理事長は日本人たること」などが申し合わされた(『明治学院百五十年史』二〇一三)。港区域内の明治学院、東洋英和女学校もこれに沿って改革を行い、経営的にも外国教会による寄付から自立をしなければならなくなった。
 昭和一七年には国から連合国側の国籍の宣教師や教師たちに国外引き揚げが勧告され、それに応じなければ収容されることになったため多くは交換船で帰国せざるを得なかった。しかし、残留し、抑留所に収容され翌一八年の交換船で帰国した宣教師もいた。
 また、東洋英和女学校は東京府や文部省筋の示唆に従って、昭和一六年、校名からイギリスをイメージする「英」の文字を外し、「東洋永和女学校」と変更した(『東洋英和女学院百年史』一九八四)。聖心女子学院は昭和一八年、当局の指示によって財団法人の寄付行為の目的を「教育に関する勅語の聖旨を奉戴し婦人に必要なる教育を授くるを以て目的とす」と国策に沿ったかたちに変更(『聖心女子学院創立五十年史』一九五八)するなど、各校とも時局への対応を余儀なくされた。  (柄越祥子)