社会教育施設の疎開と戦災被害

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 戦争が激しくなるにつれて市民は読書環境から離れ、昭和一九年(一九四四)四月、三田図書館をはじめ東京都の一三の国民学校併置の図書館が閉館となった。三田図書館はその後、昭和二〇年五月の空襲で全焼し、廃館となった。また、麻布図書館と氷川図書館は昭和二〇年三月に閲覧を中止して閉館したが、空襲によって半焼や施設破壊などの被害を受け、終戦後も工事を施さなければ開館できない状況となった(佐藤 一九九八)。赤坂区立桑田記念館附属図書館は戦災により焼失し、現在は港区立桑田記念児童遊園となっている(『港区教育史』一九八七)。
 慶應義塾図書館は、新潟、山梨、長野などに蔵書を疎開させたため、被害を免れた蔵書もあったが、昭和二〇年五月二六日の空襲によって閲覧室や事務室など多くを焼失した(図4-4-3-1)。芝区白金台町(現在の白金台一丁目)にあった藤山工業図書館は、創立者である藤山雷太の死後、慶應義塾に寄付された公開図書館であるとともに慶應義塾の工学部附属図書館ともなった。建物の三分の二を海軍省に貸与中に空襲で焼夷弾が命中したが、軍の消火活動で被害はなかった(『慶應義塾図書館史』一九七二)。
 昭和一六年、二代目根津嘉一郎は初代の遺志を継いで根津美術館を開館したが、昭和二〇年五月二五日の空襲で、展示室や茶室などの大部分を焼失した。美術品については、昭和一九年に東京都西多摩郡青梅町(現在の東京都青梅市)と、根津嘉一郎の実家近くの山梨県石和(いさわ)町(現在の山梨県笛吹市)へ疎開していたため難を逃れた(根津美術館ホームページ、『港区教育史』一九八七)。  (柄越祥子)
 

図4-4-3-1 空襲後の慶應義塾図書館(昭和22年〈1947〉)
慶應義塾福澤研究センター所蔵