昭和一八年(一九四三)九月二一日の閣議決定を皮切りに、政府は敵国による攻撃の被害低減を目的とした施設・人員の疎開の構想を具体化していった。ここでは疎開が避難ではなく「戦闘配置」にほかならず、「家族主義ノ精神」に基づく、強制ではない「任意」のものであることが強調され、この姿勢はその後も政府の基本方針となった。しかし、縁故に頼るかたちの自発的な疎開は思ったように進まず、戦局悪化で疎開が切迫するなか、翌一九年には疎開政策は「防空の足手まとい」とされた「老幼其他保護を要する者」に重点化され、とくに国民学校初等科児童が注目されるようになった。