東京都戦時疎開学園

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 昭和一九年(一九四四)二月より文部省と東京都は秘密裏に調査を始め、疎開の希望があっても縁故がなく、子どもを疎開させることのできない保護者の要望に応えるため、養護学園や臨海学校などの教育施設に希望者を収容し、集団的な教育を行うこととした。これは「東京都国民学校戦時疎開学園」と呼ばれ、縁故先のない初等科三年生以上を対象とし、保護者の申請に基づいて区長が入園を許可するかたちで行われた。国民学校の訓導や寮母、養護訓導などが配置され、生活費、交通費を全額保護者の負担として、一年間の予定で実施された。ここでの生活は「師弟同行、行学一体の錬成」という教育目標のもと、勤労と生活訓練が重視されていた(「東京都国民学校戦時疎開学園設置要綱」)。
 芝区は当初、千葉県保田町と山梨県身延町の二か所に設置を計画した。千葉県保田町の墨田工業八紘寮は要塞地帯であったため千葉県と折衝を重ね、一度は館山警察署長の許可を得たが、最終的には山梨県のみとなった。山梨県に設置した都立身延戦時疎開学園は玉屋旅館を宿舎とし、芝区の三光国民学校三年生以上六三人を教職員一六名で引率、昭和二〇年一一月末まで児童を在寮させた。
 麻布区では、同年四月一四日より希望者を募り、六月五日に神奈川県足柄下郡仙石原村にある麻布教育会箱根ニコニコ高原学園内に設置した麻布仙石原戦時疎開学園へ出発した。児童は四年生以上一二八名で、筓国民学校の校長が園長となり、区内の訓導(戦前の初等教育機関の正規教員のこと)五名、養護訓導一名、寮母など一〇名の職員が引率した。寮則には、「合宿ニヨリ師弟同行行学一体」「皇国民ノ育成並ニ錬成ヲ行フ」などが掲げられていた。
 赤坂区では、臨海学校や養護施設として運営されてきた静岡県沼津市我入道の施設を東京都立沼津戦時疎開学園として利用した。児童は赤坂区内五つの国民学校の三~五年生合計一一八名、乃木国民学校長が園長として率い、一九名の教職員が支えた。ここでの生活は「行学一体の生活訓練を重視」「生産作用・勤労奉仕などの積極的実践」「家庭的な雰囲気の醸成」「戦時生活の意識」などの方針を立てて行われた(図4-4-4-1、図4-4-4-2)。この赤坂区の沼津戦時疎開学園は昭和二〇年六月三〇日東京都北多摩郡府中町へ再疎開となったが(四章四節コラム参照)、それまで一か所であった宿舎が四つの寺院(善明寺、西蔵院、光明院、興安寺)に分宿となったり、沼津よりも食料不足に苦しむ事になったりするなど条件は悪化した(『資料 東京都の学童疎開』一九九六、『港区教育史』一九八七、『我等は海と松風育ち』一九九五)。
 

図4-4-4-1 沼津戦時疎開学園の林間授業
赤坂沼津学園同窓会『我等は海と松風育ち』(1995)から転載

図4-4-4-2 沼津戦時疎開学園の農耕作業
赤坂沼津学園同窓会『我等は海と松風育ち』(1995)から転載