学童集団疎開の実施

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 昭和一九年(一九四四)六月三〇日、東条英機内閣は「学童疎開促進要綱」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、縁故疎開を原則とした国民学校児童による学童集団疎開の実施を定めた。同年七月一六日に国民学校長会議が行われたのち、学校ごとに集団疎開に関する緊急保護者会を開き、約一か月での出発となった。疎開先については、東京都と受入県との間で事前調整がなされ、芝区、麻布区の国民学校は栃木県、赤坂区は三多摩地区というように割り振られた。個々の宿泊先の選定は学校も関わった可能性があり、「(白金国民学校の校長が)場所を選んだその日に帰ってきて『柏屋という一番大きい、いい旅館をとってきたぞ』って、大変自慢なさったんです」という当時の教員の回想がある(『しろかね』一九六六)。
 桜川国民学校の「学校日誌」によると八月一五日の奉仕会理事会で疎開先旅館の決定を報告し、それ以降教員たちは出発の荷造りなどの準備に追われた。二三日には集団疎開へ向けての壮行会が、奉仕会の役員も出席のもとで開かれ、「国民儀礼、君が代、壮行の辞、児童の壮行辞、児童のお礼の言葉、校歌」の斉唱が行われた。二五日の朝には、三、四年生と、五、六年生とに分かれて時間差で出発、上野経由で疎開先に向かっている。その間、教員は児童の部屋割りや業務の引き継ぎ作業などを行い、出発までの慌ただしい様子が日記に記されている(「集団疎開出発状況(学校日誌)」)。
 昭和一九年八月、それぞれの国民学校は学童集団疎開へと出発した(表4-4-4-1)。
 

表4-4-4-1① 公立国民学校児童疎開先(芝区)

注1)  桜田小学校編『さくらだ 東京都港区立桜田小学校創立95周年記念 東京都港区立桜田幼稚園10周年記念』(1970)を参照
『港区史』(1960)、『港区教育史』(1987)、全国疎開学童連絡協議会編『学童疎開の記録』1(大空社、1994)をもとに作成

表4-4-4-1② 公立国民学校児童疎開先(麻布区)

注2)  出発日については麻布小学校『学校沿革史』(1965)を参照。
注3)  「戦時中の国民学校児童疎開・編纂資料」(1959)を参照。

注4)  東町小学校編『開校90周年記念誌 わたしたちの東町』(2003)を参照。
『港区史』(1960)、『港区教育史』(1987)、全国疎開学童連絡協議会編『学童疎開の記録』1(大空社、1994)をもとに作成

表4-4-4-1③ 公立国民学校児童疎開先(赤坂区)

注5)赤坂小学校編『学校沿革誌』を参照。
『港区史』(1960)、『港区教育史』(1987)、全国疎開学童連絡協議会編『学童疎開の記録』1(大空社、1994)をもとに作成