桜川国民学校の「学校日誌」によると八月一五日の奉仕会理事会で疎開先旅館の決定を報告し、それ以降教員たちは出発の荷造りなどの準備に追われた。二三日には集団疎開へ向けての壮行会が、奉仕会の役員も出席のもとで開かれ、「国民儀礼、君が代、壮行の辞、児童の壮行辞、児童のお礼の言葉、校歌」の斉唱が行われた。二五日の朝には、三、四年生と、五、六年生とに分かれて時間差で出発、上野経由で疎開先に向かっている。その間、教員は児童の部屋割りや業務の引き継ぎ作業などを行い、出発までの慌ただしい様子が日記に記されている(「集団疎開出発状況(学校日誌)」)。
昭和一九年八月、それぞれの国民学校は学童集団疎開へと出発した(表4-4-4-1)。
表4-4-4-1① 公立国民学校児童疎開先(芝区)
注1) 桜田小学校編『さくらだ 東京都港区立桜田小学校創立95周年記念 東京都港区立桜田幼稚園10周年記念』(1970)を参照
『港区史』(1960)、『港区教育史』(1987)、全国疎開学童連絡協議会編『学童疎開の記録』1(大空社、1994)をもとに作成
表4-4-4-1② 公立国民学校児童疎開先(麻布区)
注2) 出発日については麻布小学校『学校沿革史』(1965)を参照。
注3) 「戦時中の国民学校児童疎開・編纂資料」(1959)を参照。
注4) 東町小学校編『開校90周年記念誌 わたしたちの東町』(2003)を参照。
『港区史』(1960)、『港区教育史』(1987)、全国疎開学童連絡協議会編『学童疎開の記録』1(大空社、1994)をもとに作成
表4-4-4-1③ 公立国民学校児童疎開先(赤坂区)
注5)赤坂小学校編『学校沿革誌』を参照。
『港区史』(1960)、『港区教育史』(1987)、全国疎開学童連絡協議会編『学童疎開の記録』1(大空社、1994)をもとに作成