国民学校令下では認定学校とされていた私立の初等教育学校も、学童集団疎開を実施した。芝区の聖心女子学院は、保護者から集団疎開を希望する声が高まり、栃木県那須郡那須村湯本の保護者の別荘を借用することになった。昭和一九年(一九四四)八月には児童七八名が疎開をし、翌二〇年四月には、一年生以上八七名が合流した(『聖心女子学院創立五十年史』一九五八)。同じく芝区の森村学園は、当初、主事が「戦争なのだから、こそこそ逃げないで最後まで堂々と戦ったほうがいい」という考えから疎開には消極的であったため準備が遅れたが、東京都と保護者の後押しで保護者の伝手を頼って栃木県安蘇郡阿蘇三村大字出流原へ疎開した。昭和一九年八月二〇日の出発には児童一二〇名が参加した(『森村学園六十年史』一九七〇)。
麻布区にある東洋永和女学院(現在の東洋英和女学院)は、軽井沢の保護者の別荘なども候補に挙がったが、東京都からの指導により、栃木県都賀郡寺尾村出流山満願寺へ疎開した。参加児童は三~六年生の八三名。主事、受持教員四名、看護婦一名、寮母四名が引率した。また、翌春四月には二年生九名が合流したが、縁故疎開に切り替える者も多く、七月には六三名まで児童数が減少した(『東洋英和女学院百年史』一九八四)。赤坂区の啓明学園は、北多摩郡拝島村にもともと学園の錬成場として別邸を三井から寄贈されており、それを利用して集団疎開を実施した。参加児童数は三年生以上の二二名であった(『啓明』一九八〇)。