学校の友人たちと出かける集団疎開は、出発時は修学旅行や遠足に行くかのような気持ちであったという回想がしばしばみられるが、「一晩立つとメソメソしはじめました」(『芝浦』一九六七)というように、疎開生活は寂しさや苦労を伴うものであった。
八月二九日に第一陣、三〇日に第二陣と分かれて塩原に入り、集団疎開を開始した桜田国民学校は、九月四日から授業を開始した。坂本屋という旅館の二階を教室とし、机はなく小さな黒板一つという状況であったが、「教育は設備ではない。根本は人にある。松下村塾のごとき大人物をこの疎開学園より生み出さねばならぬ。時あたかも国家危機の秋である」との教員の思いが学校日誌に記されている(「昭和一九・二十年度 学童集団疎開の記録」)。
麻布区東町国民学校の授業は、受入地の国民学校に委託の形式をとり、三年生から六年生まで各学級に編入した。同じ教室で授業を受けるなかで一部の地元の児童たちとの間に軋轢(あつれき)が生じることもあったが、課外に学校の裏山で活動するときには「常に親切でやれあの木の実は食べられるとかあの木の名前はなんであるとか、こういうところには何が居る等よく教えて呉れ」たという(「学童集団疎開の記録」)。
芝区の児童の疎開先は温泉地の旅館が多かったため、穀倉地帯などに集団疎開した学校に比べて食料が不足する傾向があった。空腹を感じた児童は、歯磨き粉や栄養剤を食べたり、教員の目を盗んでお手玉のなかに入っている煎り豆をおやつ替わりに食べることもあった(デジタル港区教育史)。このような食料不足を補うために保護者が、「かんそう卵などを石油かんで持ってきてくれた」り、「先生も自分の物を食糧に代えたり」して、少しでも子どもたちの食糧を確保するために努めていた(『芝浦』一九六七)。
当時の児童の一面をうかがわせる次のような回想もある。
塩原小学校の校庭の忠礼塔にはよく行き、皇居遥拝はよくやった。よる寝床の上で東京方面にむいて、お父さんお母さんおやすみなさいと毎晩唱和していたがこちらのほうが子供心にもひる間の皇居遥拝とはひと味違った遥拝ではなかったか。みんな(すくなくとも男子は)バリバリの軍国少年になっていて、陸軍幼年学校とか江田島の海軍兵学校とか予科連((ママ))とか特別幹部候補生とかになって「お国のために戦おう」という気にさせられていた(『竹芝』一九九二、図4-4-4-5)
図4-4-4-3 対面式(桜川国民学校)
村田武子氏所蔵
図4-4-4-4 参拝式(桜川国民学校)
村田武子氏所蔵
図4-4-4-5 竹芝国民学校の疎開宿舎と児童
港区竹芝小学校同窓会編 『竹芝――明治40年~平成元年』(1992)から転載