多くの児童が縁故疎開や集団疎開で東京を離れるなか、東京の学校にはさまざまな事情で児童約七五〇〇名が残ったとされ(『新修港区史』一九七九)、少数の教員とともに複式学級のようなかたちで授業を続けていた。しかし、日々空襲に曝(さら)されるなかで、「子供を集めて授業をしたが、空襲になると、授業をやめて、解除になるとまた授業をやったりして何のためにやっているのか判らなかった」(『ひのき』一九五六)という状況でもあった。
児童のいなくなった校舎は軍に接収されたところもあり、また、昭和二〇年(一九四五)五月の空襲では港区域の多くの学校が全焼した。そうした状況下で、八月に戦争が終わっても交通事情や食糧問題などを理由に東京都は集団疎開教育の継続を発表し、実際に東京の学校に疎開先から児童が戻って来たのは、同年一〇月半ば以降のことであった。 (柄越祥子)