現場の責任者でもある引率教員の以下のような回想がある。
再疎開したのは昭和二十年六月三十日、戦況漸く我が国に不利で、一億玉砕の声も囁かれている時でした。再疎開の命令を受けた時、最後まで区長の命令に反対したのはわたしだった。なぜ物資の豊富な、親しみ深い沼津から(中略)物資の少ない、馴染みのない、危険な帝都の府中へ行かねばならないのか、どうしても納得がいかなかった。区長も、責任者としてのわたしの気持が解ったのか、余り催促もしなかったが、とうとう最後には「区長として命令するのではない。これは軍の命令だ」と怒り出した(『我等は海と松風育ち』一九九五)。
沼津戦時疎開学園は、集団疎開に先駆けて東京都が取り組んだ戦時疎開学園のうち、赤坂区が設置したもので、区内の赤坂国民学校・乃木国民学校・氷川国民学校・青山国民学校・青南国民学校の五つの学校から、希望者を募って実施されていた。静岡県からの再疎開先として指定された地域には、これまで都市部から集団疎開児童が送られていなかった青森県や岩手県、秋田県といった遠方の地域も含まれていたが、沼津戦時疎開学園は東京都内の府中町へ再疎開している。学園長が乃木国民学校長であったことから、乃木国民学校の集団疎開先であった府中町へ再疎開した可能性があるが、府中への再疎開の詳細は定かではない。
沼津戦時疎開学園を除いて、港区域の国民学校は該当地域に集団疎開をしていなかったため、このような大がかりな再疎開は行われていないが、環境の問題や食糧事情の悪化を理由として以下の学校が再疎開を行った(表4-4-コラム-1)。
(柄越祥子)
表4-4-コラム-1 再疎開先一覧
全国疎開学童連絡協議会編『学童疎開の記録』1(大空社、1994)、赤坂沼津学園同窓会『我等は海と松風育ち』(1995)などをもとに作成