一九三〇年代後半の工業の展開

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 一九二〇年代後半から一九三〇年代前半にかけての日本経済は、世界恐慌や昭和恐慌の影響から不況感が強く、とくに重工業部門で不振がみられていた。ただ、三章四節二項で明らかにしたように、昭和七年(一九三二)以降、軍事部門を中心とした重工業が発展し、港区域においても機械・金属工場の集積が進んだ。加えて、昭和一一年以降、一層の軍事工業化が進むとともに昭和一二年の日中戦争の全面化によって重化学工業部門が急成長した。製造工業に占める鉄鋼・非鉄金属・機械・化学の総生産額の比率は、昭和一五年には五八・九パーセントを占めるまで上昇したのである。
 一九三〇年代後半の工場の動向をみてみよう。表4-5-1-1は、昭和一二年と昭和一四年の東京市各区の工場数と昭和一二年の工場生産額を表したものである。昭和一二年、東京市全体では職工数五人以上の工場が約一万四〇〇〇(そこで働く職工数は旧市域で一三万六三五六人、新市域では三三万三四五一人)、五人未満の工場が約三万(働く職工数は旧市域で二万四七九四人、新市域で二万二四五七人)であった。芝区は旧市域においても工場数、生産額で上位に位置していた。ただ、新市域での工業生産額上位二区であった品川区と城東区の生産額は、芝区の二倍以上で新市域の工場は旧市域よりも規模が大きく、また工場数、生産額でも凌駕(りょうが)していた。
 昭和一二年と昭和一四年の工場数を比較すると、東京市全体で工場数が激増したことが確認できる。港区域では、いずれの区でも工場数は増加したものの、職工数五人以上の工場数の増加はゆるやかであった。一方、新市域の職工数五人以上の工場数は一・五倍となった。増加が顕著であったのは、大森区(三四八から八五一)、蒲田区(九四〇から一六〇二)であった。また、職工数五人未満の工場数は、旧市域、新市域とも倍増しており、旧市域での増加が顕著で芝区や本所区での増加が著しかった。職工数は五人以上の工場で五六万九九八二人、五人未満の工場では九万一七一二人と急増していた。
 

表4-5-1-1 各区の工場数と生産額

東京市編『東京市統計年表 第35回第3部産業統計』(1939)、同『東京市統計年表 第37回産業統計編』(1941)をもとに作成