第一次世界大戦以降、日本の重化学工業が発展と停滞を繰り返すなか、中小企業の存在が重要となった。第一次世界大戦期には、欧米製品の輸出が減少したアジア・アフリカ向けの綿織物や雑貨(マッチ、漆器、陶磁器、玩具など)の輸出が拡大した。ただ、一九二〇年代以降、欧米製品との競争激化のなかで、輸出に関わる中小企業の経営難が問題となった。加えて、日本の国際収支が悪化し、その改善のため輸出の重要な担い手であった中小企業を支える施策が必要となったのである。その施策として大正一四年(一九二五)に制定されたのが、重要輸出品工業組合法であった。この法律は、二二種の製品に関わる生産者らによって工業組合を設立し、製品、原材料、価格協定などの「統制事業」と製品加工や原材料購入の「共同経済事業」を行うものである。こうした中小企業における工業部門への統制は、昭和六年(一九三一)四月二日公布法律第六二号「重要輸出品工業組合法中改正法律」、昭和七年九月公布法律第二五号「商業組合法」の制定につながり、その後も数回の改正を繰り返した。
昭和六年の満州事変やその後の軍需工業化によって、輸出に関わる中小企業では、大企業からの発注が増加することで生産増加を実現した。しかし、昭和一二年以降、経済の統制が強化されるなか、中小企業の経営環境が悪化した。とくに、昭和一二年九月一〇日公布法律第九二号「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律」の制定により、軍需に関わらない原材料の輸入やその使用が制限を受けるようになった。輸出中小工業(例えば、綿織物、人絹、毛織物、紙製品、陶磁器、莫大小製品、マッチ、玩具)は製品輸出の不振、民需の中小工業(油脂、ボタン、ゴム製品など)は原料輸入が困難となったのである。貿易の統制や原料の配給のありようを支えるため、昭和一四年に工業組合法が改正され(法律第六五号「工業組合法中改正法律」)、中小企業の工業組合への強制加入が定められた。