近代日本の人々の健康を脅かす要因は、当初はコレラが猛威を振るったことによったが、明治二〇年代以降になると赤痢のもたらす被害も目立つようになる。明治三〇年(一八九七)の伝染病予防法では、コレラや赤痢に加えて、チフス、ペストなどの感染症が法定されるが、これにとどまらず性病やらい(ハンセン病)、結核といった疾病に対する対策もそれまで以上に理解が進む。
性病は明治初期には花柳病として花柳界を軸に注意喚起がなされたが、明治二五年に設置されて以降、日本の感染症研究をリードする伝染病研究所で活躍する秦佐八郎(はたさはちろう)が欧州留学中に成果を見た梅毒の治療剤であるサルバルサンの効果が認められるようになると、性病の化学療法の道が拓かれていった。二章五節一項コラムでも紹介したように、福澤諭吉や長与専斎の尽力で設立された伝染病研究所が、大正三年(一九一四)に内務省から文部省に移管されることが決定すると、これをよしとしない北里は「伝研」を去り、自ら私立の北里研究所を立ち上げた。このとき、北里柴三郎への信頼が厚い秦は北里の行動に呼応し、その後、北里研究所副所長、さらには北里が初代学部長を務めた慶應義塾でも教授として細菌学を講じた。
らい病(ハンセン病)についても対策が進められ、明治三八年(一九〇五)の渋沢栄一らによる「癩(らい)予防相談会」の催しや明治四〇年の「癩予防ニ関スル法律」が出されるなどした。
結核対策では、「伝研」をリードした北里が比較的早い時期から関心を寄せていた。ドイツにて師事したローベルト・コッホが結核に対する細菌学的知見を明らかにしたのが明治一五年のことであり、日本でもこの頃より肺病死亡者の調査が開始され、明治二二年には兵庫県須磨浦に結核療養所が設けられる。北里もドイツより帰国すると、土筆ヶ岡養生園を運営し、結核の治療にあたった。明治三〇年代になると、後藤新平の後を引き継いだ長谷川泰内務省衛生局長のもと、肺結核死亡者数の全国調査がなされるなかで、徐々に結核対策が必要であるとの認識が強められていった。明治三〇年代後半になると内務省令として「肺結核予防ニ関スル件」が出され、公衆の集合する場所に痰壺(たんつぼ)を設置すること、結核患者の居住した部屋やその所有した物品の消毒が求められた。
明治四〇年代に入ると、結核の細菌学的理解に貢献したコッホが来日する。これにあわせてかつてコッホのもとで学んだ北里は金杉英五郎や北島多一らとともに結核予防事業の必要性を訴え、こうした動きは日本結核予防協会の設立へとつながっていった。
北里たちの結核対策への思いは、大正五年(一九一六)以降、保健衛生調査会での関心を呼ぶようにもなる。この調査会に期待されたことは「国民の健康状態、国民の健康を損う原因及びその除去に必要な事項並びに健康の保持増進に必要な事項を統計的学術的に調査研究する」ことであった(厚生省医務局編 一九七六)。長与が実現した明治七年(一八七四)の「医制」制定から八〇年を記念して編まれた『医制八十年史』では、「消極的衛生行政」から国民の健康増進を目的とする「積極行政」への端緒としてこの機関の活動を位置付ける。会長には内務次官があてられ、関係各庁の幹部およびその候補、学識経験者をもって組織された。長与の三男で、東京大学総長となる長与又郎(またろう)もここで活躍した一人であった。主な調査項目は、乳児、幼児、学齢児童および青年のこと、住民の衣食住のこと、農村衛生状態のこと、統計のこと、精神病やらい病(ハンセン病)、花柳病、そして結核のことであった。
結核対策への理解が進むなか、大正八年(一九一九)には法律第二六号「結核予防法」の制定をみる。これが制定されたことで、①結核菌に汚染した家屋等の消毒、②旅館・理髪店の従業員等に対する健康診断の励行、③結核患者の従業禁止、④学校や病院など公共施設における痰壺の設置、⑤人口五万人以上の市等における結核療養所の設置、⑥結核に罹患した貧困者の療養所への入所、⑦地方公共団体および公益法人の運営する結核療養所への国庫補助、⑧従業禁止または命令入所を理由とする生活困難者への生活費の補給を進めることとなった。
大正期には、小児保健所や健康相談所など住民の健康のための第一線の行政機関の設置が求められるようになるが、昭和期に入るとこうした行政機関の設置要請が一層強まり、昭和一二年(一九三七)に保健所法が制定されると保健所への関心が高まる。同法の制定理由は、「保健所法案説明書」にて示された。ここでは、①「保健所ハ国民ノ体位ヲ向上セシムル為ノ施設」、②「保健所ハ中央ノ機関ニ非ズシテ各地方毎ニ設置セラレ地方民ニ直接接触シテ活動スル施設」、そして③「保健所ノ行フ事業ノ本体ハ地方民ニ対スル保健上必要ナル指導ナルコトヲ定メ保健所ガ地方的保健指導機関」であることが確認された。すなわち、保健所は「国民の体位の向上」を実現するため、「地方民」に直に接するための地方機関であり、その実施する事業も「地方民ニ対スル保健上必要ナル指導」をなすものであった(「保健所法ヲ定ム」)。
所管事項は、「衛生思想ノ啓発」や「栄養ノ改善」、「環境ノ衛生」、「妊産婦乳幼児ノ衛生」、「疾病ノ予防」など「健康ノ増進」に関することで、「国民体位ヲ向上セシムルニ必要ナル事項」は保健所が所管することが予定された。各地で保健所の設置が求められるようになると、港区域では昭和一二年一二月に芝、麻布、赤坂の三区を担当する東京市立麻布健康相談所が麻布区宮村町(現在の元麻布三丁目)に設置される。
住民の健康のための第一線の行政機関として保健所の設置が求められる一方、医療機関への立ち入りや防疫、飲食店の営業取り締まりなどの事務に関しては警察が所管した。昭和戦前期の住民の健康問題に対する行政上の対応においては、保健所や警察など行政機関が分立し、権限が多元化する傾向が強かったということである。
保健所の活動に期待された「国民の体位の向上」は、昭和六年の満州事変以降、日本が準戦時体制から戦時体制に移行していくなかで、陸軍が特段の関心を寄せた点でもあった。結核により軍隊の戦意が低下する傾向を食い止めねばならないという事情からである。そこで陸軍はそれまで住民の健康管理の中心的役割を担ってきた内務省衛生局といった内務省の一部局による衛生行政ではなく、このための独立した省の設置を要望する。これが保健所法制定の翌年、昭和一三年に実現する厚生省の設置である。
しかし、実のところ衛生行政を所管する部局を拡張する案の有用性、すなわち内務省衛生局独立論は比較的早くより論じられており、明治一五年(一八八二)の池田謙斎(けんさい)と高木兼寛(かねひろ)による「衛生事務拡張論」にはすでにこれを確認することができる。高木はイギリス留学から帰国すると、港区域においてイギリス流の医療の考え方を実践するべく活動していたが、加えて中央衛生会の委員として長与専斎とともに感染症対策や衛生事務の拡張運動に取り組むなど、長与の支持者でもあった。
池田らはこの建言書において、内務省の衛生行政がコレラをはじめとする感染症対策の事務に還元されてしまっていると批判し、西洋の行政組織を勘案しながら「今英独諸国ノ制ニ倣ヒ独立ノ一省若クハ一院ヲ置キ衛生済貧等ノ事務ヲ統轄セシメラルヽハ頗ル緊要ノ事ナリ」として衛生局独立論に触れる(「衛生事務拡張ノ為メ費用下付ノ件」)。これは政府での議論に付され、衛生費の拡張は認められたものの、行政組織の改編までには至らなかった。しかし住民の健康の実現を図るための独立した行政組織への関心はこれ以降も持たれ、欧州の衛生行政を調査していた内務官僚の氏原佐蔵(うじはらすけぞう)の報告書(大正九年)では、「英国は率先衛生省を独立し国民保健の増進を図り加ふるに国営健康保険並に各般に亘れる社会救済事業の主管省たらしめ社会政策上の一新紀元を画せり」と評価されていた(内務省衛生局編 一九二一)。昭和期に入ると内務事務官の亀山孝一によれば、今後の住民の健康を増進するための行政組織に関しては「一、衛生省又は保健省を設置すべしとする説」「二、社会省を設置し衛生行政を社会政策と共に其の管掌とすべしとの説」「三、衛生院を設け内閣総理大臣の直属にすべしとの説」「四、内務省衛生局を内務大臣の監督の下に社会局の如く外局となし、以て衛生行政を統一すべしと為す説」「五、現在の内務省衛生局と社会局とを統一し社会衛生局となすべしとの説」などの見解が唱えられていた(亀山 一九三二)。大正期に設置された内務省社会局の活動をふまえ、社会行政と衛生行政をともに所管する行政組織の構想も持たれるようになっていたといえよう。
ただし高野六郎内務省衛生局予防課長のように、結核などの感染症予防について、「結核の蔓延するといふ事実は一面に於て生活要件の不衛生であることを示す。例へば住宅が不良である。食物が不良である。労働条件が不適当である。従つて身体は完全なる発育を遂げ得ず、体位体力は低下し、予防し得べき幾多の疾病も予防されずにあるといふ結果にある。之をどうかせねばならぬことが明になつて来た」(高野 一九三七)と現状を憂慮しながらも、新たに独立した行政組織を設置するのではなく、既存の組織を活用しながら予算の増額を背景として政策の効果を高めようとする立場もあった。高野は結核療養所の拡充や結核予防国民教育の徹底などを目指す結核対策、保健所の普及、無医村対策、救療事業の拡充、時局匡救医療救護の延長、らい根絶計画、精神病院対策などに関心を寄せていた。
内務省では必ずしも衛生局独立論のような新たな行政組織の設置に向けて一致した見解があったわけではないが、衛生局や社会局の内務省からの独立を目指す立場を後押ししたのが内閣総理大臣や陸軍の意向である。廣田弘毅内閣は国策として「保健施設の拡充」と「行政機構の整備改善」を打ち出し、陸軍からは「衛生省案」が伝えられた。この陸軍の「衛生省案」では、衛生省は大臣官房以下、衛生局、体力局、学務局、業務局、社会局、保険局、交通局、移住局、民事局からなるとされたが、内務省衛生局長としてこの案に触れた狭間茂は「それは(衛生省案―筆者注)ごく素朴なもので、ほんの構想を示したもの」であったとしている(厚生省五十年史編集委員会編 一九八八)。ただ、満州事変以後の陸軍の発言力を背景として、明治以降の「衛生局独立論」は次第に具体化の様相を呈し、昭和一二年(一九三七)七月には近衛文麿内閣により「保健社会省(仮称)設置要綱」が閣議決定される。この保健社会省案は大臣官房以下、労働局、社会局、体力局、衛生局、医務局、そして保険院の五局一院からなるものであり、医務局では「医薬制度ノ改善」や「国民的疾病ノ防滅」とともに「伝染病ノ撲滅」を所管することとなっていた。
近衛内閣の新省設置案はこののち枢密院に送られ、「新機関ヲ設ケテ多年既設ノ機関ニ於テ管理シ来リタル事務ヲ之ニ移管スルノ当否ニ付テハ稍々論議ノ余地ナキニアラザルベシ」とされながらも、「当局ガ方今ノ事態ニ顧ミ有力ナル機関ヲ新設シテ関係事務ヲ統合掌理セシメ面目ヲ一新シテ機能ヲ強化セントスルノ趣旨ハ之ヲ諒トスルヲ防」げるものではないとの見解が付され、新省の名称を「厚生省」とすることとなった(「〈秘〉厚生省設置ニ関スル枢密院審査報告書〈後段〉」)。昭和一二年(一九三七)の暮れのことであり、翌昭和一三年には厚生省の設置が実現した。
新設された厚生省は、大臣官房以下、体力局、衛生局、予防局、社会局、労働局、臨時軍事援護部、そして外局の保険院からなり、結核など感染症対策は予防局が所管することとなり、以降、厚生省は「戦時厚生行政」の一翼を担うこととなった。
「国民の体位の向上」を目指す「戦時厚生行政」の影響は各地に及び、港区域では、それまでの公立の健康相談所や児童健康相談所などの業務が保健所に吸収され、昭和一八年の東京都立麻布保健所、そして翌年の東京都立芝保健所が設置されるという健康のための第一線の行政機関の再編が進められた。なお、東京都立赤坂保健所は、昭和二一年に設置されている。 (小島和貴)