続いて、犯罪件数をみてみよう。表4-6-2-3にあるように、昭和一〇年において、芝・麻布・赤坂の三区のなかで最も犯罪総数が多かったのが芝区であった。ただし、東京市一五区内の人口比で犯罪総数をみてみると、三区いずれも少なかったことがわかる。また、アジア・太平洋戦争が勃発するなど、国内でも戦時体制が強化された昭和一六年を昭和一〇年と比較すると、東京市一五区全体で犯罪総数が大幅に減少し、三区も同様の結果となっている。
さて、日本が本格的に戦争の時代へと突入していくと、警察の役割も犯罪の取り締まりから社会運動の取り締まりや監視に比重が置かれることとなる。これらの役割は、主に警視庁特別高等課が担っていた。特別高等課は、昭和七年六月に特別高等警察部に昇格すると、特別高等・外事・労働・内鮮・検閲・調停の各課に約二五〇名の人員が配置された。二・二六事件後の昭和一一年七月には、特別高等課が左派勢力を担当する特高第一課と、右派勢力を担当する特高第二課に分けられ、特高部全体の人員が三七〇名を超えた。以下、港区域で起こった主な事件を紹介しよう。
まず、左派勢力関係の事件である。昭和八年一二月、共産党の大串雅美が党内でスパイ容疑をかけられ、監禁・暴行されたと警視庁特高課に逃げ込んできた。これを受けて、特高課員と赤坂表町警察署員が監禁場所(赤坂区台町)に乗り込んだものの、すでにもぬけの殻であった。特高課は、その直後に共産党中央委員の小畑達夫と大泉兼蔵を党から除名し、極刑をもって断罪すると報じた『赤旗』の号外を入手する。そして、大串と同じく、小畑らにも私刑を加えていると考え、党中央委員の宮本顕治らを検挙したのである。しかし宮本は、警察の取り調べに対して、黙秘を続けた。
年が明けて昭和九年一月、麻布鳥居坂警察署の巡査が帰宅したところ、近所の住民からの声を受けて、悲鳴が聞こえたという空き家に乗り込むと、大泉が射殺されかけている現場に出くわした。巡査は、その場にいた三名を麻布鳥居坂警察署に連行した。その後、特高課員と麻布鳥居坂警察署員が捜査を進め、小畑の遺体を発見したのである。
この事件では、宮本のほか、同じく党中央委員の袴田里見など六名が有罪判決を受けた。ただし、戦後に政治犯が釈放されたことに伴い、袴田は釈放され、宮本も無期懲役から懲役二〇年に減刑された。その後、彼らの公民権復活の措置がとられた。一連の措置を受けて、日本共産党は小畑、大泉への暴行を否定し、彼らが特高のスパイであったと主張している。
当時の警察による左派勢力への警戒は相当なものであった。昭和一五年、内務省は、岩波書店や日本評論社などの左派系の出版物を発禁処分とした。これに伴い、マルクスやエンゲルス関係の図書は、図書館での閲覧が禁じられ、警察は該当の書籍を供出するよう各図書館に命じた。慶應義塾の図書館は、これらの図書を多数所蔵していたほか、他の図書館が自粛していた一般公開も継続中であった。そのため、昭和一七年頃には、私服の刑事が慶應義塾の図書館を出入りする者を監視していた、と言われている。
一方、右派勢力の事件も港区域で起こっている。昭和七年に陸・海軍の青年将校が内閣総理大臣の犬養毅らを殺害した五・一五事件では、事件当日に主犯の三上卓らが芝区にあった水交社で檄文(げきぶん)のビラを印刷している。また、海軍中尉の古賀清志らは、泉岳寺山門前の茶店力亭に集まった上で、内大臣の牧野伸顕が住む、芝区三田台町の内大臣官邸を襲撃した。手榴弾を投げつけたものの、警戒にあたっていた芝三田警察署の巡査らの反撃を受け、官邸への侵入はかなわなかった。
港区域はまた、昭和一一年の二・二六事件の舞台にもなっている。大蔵大臣の高橋是清が殺害された私邸は、赤坂区表町にあった。当地は現在、高橋是清翁記念公園となっており、高橋の邸宅は都立小金井公園内の江戸東京たてもの園に移築されている。
軍部のみならず、暴力団も国家主義や国粋主義を標榜しつつ、勢力を伸ばしていた。『警視庁史』によれば、港区域では、赤羽隆次が、表向きは土建請負業を掲げながら、右翼団体赤羽同志会を発足させ、腹心の小野法順を麻布区議会議員に当選させていた。さらに、昭和八年の麻布区会議長選挙に際しては、一五〇名余りを引き連れて議場に押しかけ、区会議員を脅し小野を議長に当選させたという。そのほかにも、折に触れて区政に圧力をかけた。こうした状況を受けて、昭和一〇年五月以降、警視庁は暴力団の検挙に尽力する。同年の検挙者数は、東京市全体で八千を超えた。その結果、暴力団の影響力は終戦まで大いに低下した。
アジア・太平洋戦争の終結の年である昭和二〇年も、事件が続く。同年八月、右翼団体の尊攘同志会は、終戦反対の運動を激化させた。一六日の明け方、内大臣の木戸幸一に面会を強要すべく、木戸の私邸(赤坂新町)に押しかけたため、警戒中の赤坂警察署の巡査と小競り合いを起こした。さらに尊攘同志会は、愛宕山に集結し、徹底抗戦することを企てた。これに対して、特高部長の上村健太郎らが説得を試みるものの、同会の摺建富士男、飯島与士夫、谷川仁らはこれに応じない。二二日、警視庁の警官隊が実力行使に踏み切ると、摺建らは手榴弾を投げ合い自決した。これは愛宕山事件と呼ばれ、今日、愛宕神社には慰霊碑が残されている。
ところで、当時の警察は、社会の取り締まりや監視ばかりをしていたわけではない。災害からの救助も重要な任務であった。
昭和一三年六月二九日から七月一日にかけて、関東南部に接近した台風により、東京市内は計四三〇ミリに達する降雨量を記録した。河川の氾濫や家屋への浸水が続発するなかで、麻布区に甚大な被害がもたらされた。三〇日の午前一時五五分頃、麻布区今井町二番地にあった三井家一一代当主・高公の邸宅の裏手、約一一〇メートルの高さの崖が幅九〇メートルにわたって崩れ落ちたのである。崖下の麻布谷町では、二六戸の家屋が埋没し、一一〇名が生き埋めになった。
六本木警察署の署員や特別警備隊員が駆けつけたものの、大量の土砂となおも降り続く雨に救出作業はままならない。六本木警察署の署長・中野正幸は、異例ながら麻布の陸軍歩兵第三連隊に応援を要請した。同連隊からは、二〇〇名余りが派遣された。必死の救出作業は、翌日午後一時半までに及んだ。死者二三名、重傷者一五名、軽傷者一〇名という被害であった。
本項の最後に、港区域の警察署に関する空襲の被害状況に触れておこう。昭和二〇年四月一三日の空襲では、麻布区の鳥居坂警察署、表町警察署が罹災した。続く五月二五日には、赤坂区の青山警察署が罹災している。また、同年二月一九日に赤坂区の青山警察署長官舎が、五月二五日に麻布区の本庁付属監察官舎が、翌二六日に芝区の愛宕警察署長官舎および赤坂区の表町警察署長官舎が、それぞれ罹災した。 (久保田哲)
表4-6-2-1 昭和10年(1935)における港区域の警察署数および職員数
東京市『東京市統計年表 第33回』(1937)をもとに作成
表4-6-2-2 昭和20年(1945)末における港区域の警察署の名称、位置、管轄区域
警視庁史編さん委員会『警視庁史』3 昭和前編(1962)をもとに作成
表4-6-2-3 港区域の犯罪件数比較
東京市『東京市統計年表 第33回』(1937)、『東京市統計年表 第39回 一般統計篇』(1943)をもとに作成