昭和に入ると戦時色が徐々に強まり、消防体制も防空(空襲で生じた火災への防火)を意識したものへと変化することとなる。昭和三年(一九二八)に、大阪防空演習が実施され大都市を中心とした防空演習としてはわが国で最初のものとなった。引き続き昭和四年に名古屋防空演習、昭和八年に関東防空演習が実施された。関東防空演習は、一府五県にわたり官民一千数百万を動員する大規模演習で、東京、横浜、川崎の消防隊も参加し、東京市内三九消防署、六二出張所、一二〇組の消防組を総動員するかたちとなった。焼夷弾消火や高層建築の防火救命の確認が行われた。
このような防空体制強化の気運の高まりのなか、昭和七年東京市が空爆による火災への対応を目的とした民間防衛組織である防護団を結成し、翌年の関東防空演習に参加させた。そしてその後、防護団は大都市部や都市部へと全国的に広がることとなる。消防組と同様の防火を目的とした住民組織であるが、消防組が消防組規則により法的根拠があるのに対し、防護団は法的根拠がなかった。また消防組が警察の管轄下にあるのに対し、防護団は軍部の管轄下にあった。これら住民組織の併存状況は、昭和八年のゴーストップ事件(昭和八年に発生した事件で、大阪の天六交叉点で起きた陸軍一等兵と巡査の喧嘩が、陸軍と警察の大きな対立に発展し、最終的に警察側が譲歩して和解した。その後、政軍関係がきかなくなるきっかけとなったと言われている)に象徴される警察と軍部の対立も絡むなか、業務の重複、現場活動における指揮命令系統の混乱などの問題を引き起こした。そのため、昭和一四年に勅令第二〇号をもって「警防団令」が公布された。これにより、防護団と消防組は統合され、民間防衛組織である警防団に改組された。それまで消防組は全国で二〇〇万人ほどの人員数であったが、警防団の成立により三〇〇万人の団員を擁(よう)する防火に対応した住民組織が成立することとなった。