戦争への対応

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 さて、戦争と宗教の関係である。昭和六年(一九三一)九月に勃発した満州事変後、日本の中国大陸における勢力圏拡大に伴い、仏教の僧侶たちは陸続と布教活動に向かった。また、仏教と軍部は、親密な関係を構築していた。僧侶たちは、部隊への慰問や戦死者の葬儀などを行い、軍部もまた、仏教の支持を得ることで自らの行為を正当化しようとした。さらに、日本仏教の布教は、満州国では日本人以外も対象であった。言うまでもなく、これは仏教の勢力拡大を意味する。他方で軍部としては、漢・満州・朝鮮・モンゴルの四民族に、満州国の国家意識や国民意識を植え付けるために仏教を役立てようと考えたのである。
 こうしたなかで、仏教界は結集し、政治との関係強化に進む。明治三三年(一九〇〇)に仏教懇話会として発足し、大正四年(一九一五)に改称した仏教連合会は、昭和五年、本部を芝公園内に置いた。昭和七年七月、満州事変と上海事変における戦死者が初盆を迎えるにあたり、増上寺(芝公園四丁目)で国民大法要大会が催された。これには、陸軍大臣の荒木貞夫も出席している。また、同年一〇月に明照会館(芝公園四丁目)で開催された仏教各宗派時局懇談会では、「目下の国際時局に際し全仏教徒のこれに対応すべき方策」や、「満州国の成立に際し仏教徒のこれを援助すべき文化的思想的の対策」などが協議された(『読売新聞』(夕刊)昭和七年一〇月七日付)。参加者には、内閣総理大臣の斎藤実、陸軍大臣の荒木貞夫、海軍大臣の岡田啓介などの顔もあった。荒木は、この場で満州事変の意義を一時間半にわたって熱弁したという。さらに昭和九年には、上海事変での自爆により英雄視された肉弾三勇士(爆弾三勇士)の銅像(図4-7-1)が、青松寺(愛宕二丁目)に建てられた。
 自らの存在意義を示すように、また時流に乗るように、多くの宗教団体は戦争への協力姿勢を示していった。例えば、昭和一二年九月からの国民精神総動員運動の開始に連動するように、仏教連合会は、一〇月より芝公園協調会館で講習会を開催した。同会には、総理大臣の近衛文麿が、「時宜ヲ得タル挙ニシテ、深ク欣快トスル所ナリ」との祝辞を送っている。また、文部省宗教局長の松尾長造が同会で講演を行い、「国力を充実せしめる」ことの必要性を説いた(以上、仏教連合会編 一九三七)。
 

図4-7-1 青松寺肉弾三勇士銅像

「大東京 国の華忠烈肉弾三勇士の銅像」『大東京五十景』東京都立中央図書館所蔵(部分)