宗教団体への統制強化

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 以降は、国家の側が、宗教団体への統制を強めていった。昭和一四年(一九三九)に公布され、翌一五年に施行された法律第七七号「宗教団体法」は、非課税対象となる宗教団体を文部大臣が認可することを定める。文部大臣が、教義や行事が秩序の維持を妨げると判断すれば、宗教団体の設立認可を取り消せる、というものであった。各宗教団体は、これに戦々恐々とした。文部省宗教局で宗教団体法の成立や運用に関わった村上俊雄は、「衆議院の議員とか、右翼団体」から反社会的であるとして批判された天理教の経典や出版物を調査したと回想している。このほか、創価学会や、世界救世教なども調査対象であったという。また、キリスト教に対しては、「日本に対してスパイ行為をしているといったようなこと、あるいは反国防的なものがあるというようなこと」で非難され、「非常に不安だった」であろうと語っている(以上、「戦前の宗教団体法成立の頃――村上俊雄氏インタビュー」)。
 日米開戦後、昭和一八年には青松寺で三〇〇〇人余りを集めた法要が実施され、また増上寺では戦勝祈願のために第三回南方仏陀祭が催された。なお、南方仏陀祭とは、仏教学者が組織した学術団体の国際仏教協会が主催するもので、第一・二回は日比谷公会堂が会場となった。第三回は増上寺でパーリ聖典の通夜読経が行われたのち、日比谷公会堂で式典が挙行されたのである。
 戦局が悪化すると、港区域でも空襲の被害が増えた。このため、宗教の側は、被害者の収容場所として施設を提供した。青松寺や増上寺、霊南坂教会(赤坂一丁目)などがこれに該当し、被害者の避難・救護の場となったのである。
 当然のことながら、宗教施設にも戦災があった。泉岳寺(高輪二丁目)では、現在の講堂である義士館と山門を除く諸堂が焼失した。増上寺も、東京大空襲などにより、ほとんどの施設が灰となった。古記日鑑類の多くも焼失したという。愛宕神社(愛宕一丁目)も一部を除き、社殿が焼失した。新宗教も例外ではない。霊友会は事務所が焼失し、生長の家も戦火を受け、戦後、現在の渋谷区に移転せざるを得なかった。
 一方で、大正四年(一九一五)に国指定重要文化財となった増上寺の三解脱門は戦災を免れた。また、大門(図4-7-2)も焼失を免れ、現在では港区指定有形文化財に指定されている。推定樹齢六〇〇年という増上寺のカヤ(図4-7-3)も同じく戦争を乗り越えた。赤坂氷川神社(赤坂六丁目)にある樹齢四〇〇年と推定されるイチョウ(図4-7-4)も戦災を免れた。両者は現在、港区指定文化財(天然記念物)となっている。
 なお、アジア・太平洋戦争の終結に際し、凄惨な事件が起こった。昭和二〇年(一九四五)八月、日本がポツダム宣言を受諾するという情報を得た右翼団体・尊攘同志会の飯島与志雄や摺建富士夫らが愛宕山に籠城し、終戦派の打倒と徹底抗戦を企てたのである。警視庁の警官隊は愛宕山を包囲し、彼らに下山するよう説得する。しかし、これに応じなかったことから、八月二二日、警官隊は実力行使に出た。すると、籠城していた飯島らは手榴弾を投げ合い集団で自決した。いわゆる愛宕山事件である。現在、愛宕神社には、この事件の慰霊碑が残されている。
 

図4-7-2 現在の増上寺大門、奥に三解脱門

図4-7-3 現在の増上寺のカヤ

図4-7-4 現在の赤坂氷川神社のイチョウ