以上、仏教と神道を中心に、戦時下の状況を紹介した。ただし、戦時下の宗教と一口にいっても、キリスト教を仏教や神道と同様に語ることは難しい。そこで、以下はキリスト教に絞り、若干の言及を試みよう。
広まる戦火にキリスト教ものみこまれていき、港区域におけるキリスト教主義学校や教会も、それまでの日常とは異なる状況に置かれることとなる。戦況が進むなか、各教会は、慰問活動をはじめ、献金、軍需製品の製作などに従事した。軍用機献納運動を推進した教会もみられる。また、教会の会報には、出征している教会関係者の消息や身を案じる記事も掲載され、戦地とのつながりという役割も果たした。
しかし、そのような教会の活動が、監視の対象になっていたこともうかがえる。例えば、芝区の芝二本榎二丁目へ明治四〇年(一九〇七)に移転し、台町教会から改称されて成立した高輪教会では、出征した軍人の遺族を見舞うために教会員が訪問したところ、出征者の数を調べて軍の機密を探ろうとしたという疑いを当局からかけられることがあったという。
政府による規制は強化されていき、各教会は昭和一四年(一九三九)四月八日に公布された「宗教団体法」によって作られた教団に所属することを求められた。また、キリスト教主義学校については、いわゆる敵性語の関係から、改称を行った例もみられる。例えば、東洋英和女学校は、「英」という漢字の使用をやめ、昭和一六年に東洋永和女学校に変更された。普連土女学校は、昭和一八年に改名し、聖友女学校となった。また、外国人の宣教師や教員たちが本国へ引き揚げることも続き、教会や学校の運営にも変化が生じたと言われる。
そして、敷地や建物が政府による接収の対象となった事例もみられる。昭和一一年に芝区西久保桜川町に移転していた芝教会は、昭和一八年に会堂が政府に徴用されたため、渋谷区栄通に仮移転することとなった。ほかにも、日本聖公会に属する東京聖三一教会は、明治二二年(一八八九)に築地で設立されたのち、昭和二年(一九二七)に赤坂区青山南町(現在の南青山一丁目)へ移転してきたが、政府に接収されたうえ、戦火を受けた。
聖心女子学院は、関東大震災で崩壊し、校舎の再建が行われた。戦況が進むなか、昭和一九年に政府が校舎を利用することとなったが、昭和二〇年三月には戦災を被り、再び焼失してしまう。普連土女学校から改称された聖友女学校は、昭和一九年に学校工場を学校の食堂内に開設していたが、同二〇年五月の空襲で校舎が壊滅した。また、赤坂病院を淵源にもつ赤坂氷川町教会(現在の赤坂教会、赤坂六丁目)や、カトリックの麻布教会(西麻布三丁目)、高輪教会(高輪四丁目)なども戦火をあびた。
カトリックについては、駐日ローマ教皇庁の使節館に言及したい。大正八年(一九一九)に京橋区明石町(現在の東京都中央区明石町)に建てられた駐日ローマ教皇庁の使節館は、大正一二年の関東大震災で焼失したため、数回の移転を経て、大正一五年に麻布区新龍土町(現在の六本木七丁目)を所在地に定めた。しかし、その後、関係者たちが神奈川県に疎開していた最中の昭和二〇年(一九四五)四月に、麻布区新龍土町の使節館が空襲でふたたび焼けてしまった。
以上のように、港区域のキリスト教にも、戦争の影響が及んだのである。
さて、近代の港区域における宗教に関する歴史を振り返ると、明治前期に大教院が置かれ、また明治後期には大日本宗教家大会が、戦時下では国民大法要大会が開催されるなど、仏教を中心にしつつ、多くの宗教勢力が集う場であったことがみえてくる。むろん、この背景には、港区域の地理的利便性があったことは想像に難くない。
しかし、それだけではない。一つには、増上寺が芝公園という公共空間を能動的に作り上げたことも大きい。青松寺なども、積極的に民間に空間を開いた。こうしたなかで港区域は、多様な宗教が集う場となっていったのである。 (久保田哲・髙田久実)