ソ満国境をめぐる対立は、昭和一三年(一九三八)の張鼓峰事件として軍事衝突に発展したが、満蒙国境をめぐる対立が日ソ両国間の軍事衝突として発展したのがノモンハン事件であった。
ノモンハン事件は、昭和一四年五月に発生した日ソ両軍の衝突である第一次ノモンハン事件と、六月以降、日ソ間で停戦協定が成立する九月一五日まで続く第二次ノモンハン事件から成る。
そもそもノモンハン事件は、国境をめぐる満蒙両国の対立に端を発している。古来より慣習的に内蒙古と外蒙古の境界とされた地帯を国境と主張するモンゴルに対して、満州国・関東軍は、二〇キロ余りモンゴル側のハルハ河を満蒙国境と主張していた。満蒙両国は外交交渉による妥結を目指したが、その背後の日ソ両国は互いに相手側を駆逐した上で自己の権益の拡大を図ろうとしたため、外交交渉は不調に終わり、国境地帯における紛争がしだいに増加していった。
張鼓峰事件の経験から国境紛争地帯における兵力の増強を図った関東軍は、第二三師団を紛争地域であるハイラルに派遣した。なお、第二三師団はノモンハン事件において日本側の中核戦力となる。
昭和一四年五月一一日から翌一二日にかけて、ハルハ河近郊で満蒙両国軍の大規模な衝突があり、第二三師団長の小松原道太郎は関東軍司令部に対して増援の派遣と第二三師団の出動を要請した。関東軍司令部が航空部隊と自動車部隊の増援を決定すると、小松原も師団捜索隊などを派遣し、敵情偵察などを開始した。その後、歩兵第六四連隊を中核とする部隊も派遣し、日本軍は満州軍と合同で、一七〇一名の総兵力で第一次ノモンハン事件に臨むことになった。
一方のソ連軍は、日本軍の動向を察知すると、モンゴル軍と共同して戦車一三両および装甲車三九両などを含む約二三〇〇名の兵力を展開して日本軍を迎撃した。
五月三一日まで続いた第一次ノモンハン事件では、航空部隊は日本軍が優勢を維持した反面、装甲車両や重砲などに乏しい日本軍は苦戦を強いられ、師団捜索隊の壊滅など大きな損害を受けた。なお、かつては日本軍の一方的敗北とされていたが、ソ連崩壊後に公開された資料などによれば、日本軍の損害が戦死一五九名、負傷一一九名、行方不明一二名であったのに対し、ソ連軍は戦死・行方不明一三八名、負傷一九八名、モンゴル軍は戦死三三名と、日本軍よりも大きな損害を受けていたことが明らかになっている。
六月一八日にソ連空軍機が日本軍の駐留地に対して空襲を開始したことで、日本軍も航空部隊を展開するなど、再びハルハ河の満蒙国境地帯で日ソ両軍が対峙することになったが、陸軍省や参謀本部は不拡大方針を採り、積極的攻勢を主張する関東軍と衝突した。関東軍参謀であった辻政信らの独断により、六月二七日にモンゴル領内のタムスクを空襲するなど、関東軍の独断により戦線は拡大して第二次ノモンハン事件の勃発となった。
第二次ノモンハン事件においては、日本軍は、第二三師団を中核として、第七師団から抽出した歩兵二個連隊、さらに砲兵や工兵、満州国軍の騎兵部隊などに加えて、日本陸軍初の編制となる戦車連隊も二個連隊が投入され、その戦力は、戦車七三両、装甲車一九両、火砲一二四門など、二万名を超えた。
事件当初は、練度に勝る日本軍が優勢を占めていたが、装甲車両や航空機なども含めた予備戦力を十分に有し、十分な補充兵力を前線に展開し続けるソ連軍によって、物資の補給や兵力の補充の乏しい日本軍はしだいに劣勢となり、七月末頃には日本軍は攻勢に出る余力を失い、戦線は膠着した。
一方のソ連軍は、日本軍の攻勢が停滞したことをみて反攻の準備を進めた。八月二〇日にソ連軍の反攻が開始された時点で、ソ連軍の戦力は、戦車四三八両、装甲車三八五両、火砲五〇九門と約五万二〇〇〇名の歩兵であり、十分な補給を受けることができず、四四〇〇名以上の死傷者を出していた日本軍の約四倍におよぶ大兵力であった。ソ連軍の反攻により、日本軍の主力部隊であった第二三師団は八五〇〇名以上の死傷者を出すなど壊滅的打撃を受け、戦局は日本軍に不利に展開していた。
参謀本部は関東軍を通じて戦況報告を受けていたため、実情を十分に把握していなかったが、八月末には、参謀本部第二部(情報担当)第五課(ロシア担当)を通じて戦況を把握すると、関東軍に対してノモンハンにおける日本軍の反攻を中止し、停戦を命じた。
ノモンハン事件は、モスクワにおいて進められた、東郷茂徳駐ソ特命全権大使とヴャチェスラフ・モロトフソ連外相との間の停戦交渉が九月一六日に成立したことで、正式に停戦となった。なお、ノモンハン事件は、既述のとおり、かつては日本の一方的大敗とされていたが、新資料の公開により、日本軍の戦死七六九六名、負傷八六四七名に対して、ソ連軍も戦死九七〇三名、負傷一万五九五二名、装甲車両三九七両および航空機二五一機の喪失など、大きな損害を受けていたことが明らかになっている。