アジア・太平洋戦争

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 日中戦争は、当初の予想とは異なって長期戦となり、開戦から三年を経過してもなお事態収拾の見通しが立たなかった。日本は、重慶の中国政府に対する支援ルートである「援蔣仏印ルート」を遮断すべく昭和一五年(一九四〇)六月に仏印政府に圧力をかけ、九月四日にはフランスのヴィシー政権との間に協定を締結した。これにより、日本は紅河以北の仏印、すなわち北部仏印に進駐し、中国に対して圧力を加えた。その一方で、英米両国と日本の関係は緊張の度を深め、新たに、いわゆる「援蔣ビルマルート」が開設されるに至った。
 さらに九月二七日には、英米両国を牽制するために日本は日独伊三国同盟を締結したが、かえって英米の対日不信を増大させ、アメリカは一〇月一六日に屑鉄の対日輸出禁止措置を決定して日本に対する制裁に踏み切った。
 日本は、「援蔣ビルマルート」の遮断や、南方の資源地帯への進出の拠点確保等の目的から、昭和一六年七月二八日に南部仏印進駐に踏み切った。英米両国は、日本の南部仏印進駐に対する反対を事前に明確に示していたこともあり、両国の対日感情は急速に悪化していった。アメリカは、八月一日に対日石油全面禁輸を決定し、イギリス、中国、オランダもこれに同調したため、いわゆる「ABCD包囲網」が形成されることになった。当時の日本にとって最大の石油輸入国はアメリカであり、また、粗鋼生産能力が不足していた日本にとってアメリカから輸入される屑鉄は産業を支える重要な資源となっていたため、アメリカによる経済制裁が日本経済に対して大打撃を与えることは確実であった。
 一方、昭和一五年一一月に駐米大使となった野村吉三郎は、外交交渉による日米の和解を目指して、アメリカ国務長官コーデル・ハルとの間で交渉を重ねていたが、昭和一六年一一月二六日に、中国およびインドシナからの軍・警察力の撤退、日独伊三国同盟の破棄などの条件を含むアメリカの交渉案、いわゆる「ハル・ノート」がハルより提示された。日本はこれをアメリカによる最後通牒と受け止めて日米開戦を決意し、一二月一日の御前会議において一二月八日の対米開戦を決定した。
 一二月八日未明、日本は、マレー半島のコタバルへの上陸と、ハワイ州オアフ島の真珠湾に対する攻撃を行い、アジア・太平洋戦争が開戦した。真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊に大打撃を与え、また、香港やアメリカの信託委任統治領であったグアムを早々に占領し、昭和一七年二月一五日には東南アジアにおけるイギリスの重要拠点であったシンガポールを、三月八日にはビルマ(ミャンマー)の首都ラングーン(ヤンゴン)を占領し、また、同日にオランダ領インドネシアの連合軍が降伏したことでインドネシアも占領するなど破竹の進撃を続けた。さらに、五月六日にフィリピンのコレヒドール要塞の米軍が降伏したことで、日本は東南アジア一帯を手中に収めることに成功した。
 昭和一七年四月一八日に、日本近海まで接近した米空母を発艦した、ジェームズ・ドーリットル指揮のB-25爆撃機部隊による初の日本本土空襲、いわゆるドゥーリットル空襲を受けた。山本五十六連合艦隊司令長官は、ミッドウェー島近海に米海軍機動部隊を誘引してこれを撃滅し、あわせてミッドウェー島を占領してハワイ攻略の足がかりを作るためのミッドウェー作戦を立案する。
 六月五日から七日にかけて、ミッドウェー島近海で発生したミッドウェー海戦では、優勢であった日本軍が機動部隊の主力空母四隻すべてとその艦載機を喪失する大敗北を喫し、また、八月七日にはソロモン諸島のガダルカナル島に米海兵隊を主力とする部隊が上陸するなど、昭和一七年半ば頃より、日本軍の攻勢は停滞し、米軍の本格的な反攻が開始された。これによりソロモン諸島における消耗戦が展開され、この戦いで多数の兵員や航空機、艦船を失った日本軍はしだいに防勢作戦への転換を余儀なくされていく。
 昭和一八年五月に、日本軍の占領下にあったアリューシャン列島のアッツ島に米軍が反攻上陸を開始し、一七日間に及ぶ激戦ののち、五月二九日に日本軍守備隊が玉砕した。太平洋において本格化した米軍の反攻作戦により、ギルバート諸島のタラワ環礁やマキン環礁など、日本軍の守備する太平洋上の島々で玉砕が相次ぎ、九月三〇日の閣議および御前会議において「絶対国防圏」が設定され、本土防衛のために戦線の縮小が図られた。
 ビルマ方面では、英印軍の拠点であるインドのインパール攻略を目指したインパール作戦が昭和一九年三月より開始された。当初は日本軍が攻勢に出たが、間もなく物量に優る英印軍の反撃を受け、補給を軽視した日本軍は苦戦に陥った。前線に展開した各部隊では、餓死者や病死者が相次ぎ、戦線の維持が困難となったため七月三日に作戦は中止された。英印軍とかろうじて均衡を維持していたビルマ方面の日本軍部隊がインパール作戦で壊滅したため、東南アジアにおける戦況も悪化していく。
 昭和一九年六月一九日から二〇日にかけて、マリアナ諸島沖で戦われたマリアナ沖海戦は、日米両海軍の主力機動部隊が衝突した大規模な海戦となったが、この戦いで日本海軍機動部隊の航空戦力はほぼ壊滅した。マリアナ沖海戦で米軍の侵攻を阻止できなかったため、七月九日にサイパン島守備隊の玉砕、八月二日にはテニアン島守備隊の玉砕、一一日にはグアム島の守備隊が壊滅するなど、絶対国防圏としたマリアナ諸島が米軍によって占領された。米軍は、マリアナ諸島の航空基地からB-29爆撃機による日本本土への空襲を本格化させた。六月一五日に中国の成都を基地とするB-29が北九州の八幡を空襲するなど、すでに本土空襲は開始されていたが、マリアナ諸島を基地とすることで、東京をはじめとする本州の大部分が空襲可能となったのである。
 米軍は、フィリピンへの反攻作戦を開始し、一〇月二〇日にはレイテ島に米軍部隊が上陸した。日本軍は、米軍のフィリピン上陸を阻止すべく海軍部隊を出動させ、一〇月二〇日から二五日にかけて、レイテ沖海戦が戦われた。マリアナ沖海戦で機動部隊が壊滅し、直前の台湾沖航空戦で基地航空部隊も壊滅していた日本軍は、爆装した航空機が体当たりを行う特攻作戦に踏み切ったが、レイテ沖海戦では海軍の主力艦艇の多数を失い、以後、海軍は艦隊による作戦機能を失った。
 昭和二〇年四月一日、米軍は沖縄本島への上陸作戦を開始し、六月二三日の日本軍の組織的戦闘の終焉まで日米両軍が激戦を繰り広げた。沖縄戦では、沖縄県民も巻き込んだ壮絶な地上戦が展開され、軍民ともに多数の犠牲者を出すこととなった。
 本土空襲などにより継戦能力を失った日本は、ソ連を仲介とした和平工作などを試みるが、昭和二〇年二月に開催されたヤルタ会談においてソ連の対日参戦などが決定されていたため、交渉は失敗した。その後、七月二六日に米英中三か国首脳の名で日本に対して降伏を求めるポツダム宣言が通告されたが、日本はこれに応じなかった。米大統領のハリー・トルーマンは日本に対する原子爆弾の使用を決定し、八月六日に広島、九日に長崎にそれぞれ原子爆弾が投下され、甚大な被害を与えた。さらに、ヤルタ会談で対日参戦の密約を結んでいたソ連が、日ソ中立条約を破棄して八日に対日参戦した。満州の関東軍は、南方における戦況の悪化から主力部隊が次々と転出しており、弱体化していたこともあって、ソ連の侵攻に対して十分な反撃ができず敗走した。なお、この混乱によって、戦後における中国残留日本人孤児問題やシベリア抑留問題などが生じた。
 八月九日の御前会議において戦争の終結が決せられ、日本政府は一四日にポツダム宣言の受諾を表明し、一五日正午の玉音放送、さらに九月二日に米戦艦ミズーリの艦上において日本政府全権重光葵(しげみつまもる)と大本営全権梅津美治郎(よしじろう)が降伏文書に調印したことで、アジア・太平洋戦争は終結した。