アジア・太平洋戦争と第一連隊

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 歩兵第一連隊は、上級部隊である第一師団が関東軍の隷下にあったため、アジア・太平洋戦争開戦後も満州の孫呉に駐屯を続けていた。しかし、米軍のフィリピンに対する反攻に備えるため、昭和一九年(一九四四)七月二四日に第一師団が関東軍隷下から大本営直属となり、部隊編制が命じられた。その後、八月二〇日よりフィリピンのルソン島に向けて孫呉を出発し、一〇月二七日にマニラに到着した。この間に、第一師団は大本営直属からフィリピン方面を統括する第一四方面軍の隷下に移り、さらにマニラ到着時にはレイテ島などの守備にあたる第三五軍の指揮下に加えられた。以下、『第一師団作戦行動ノ概要』に基づき、フィリピンにおける歩兵第一連隊の動向を略述する。
 第一師団は、米軍の潜水艦や航空機の攻撃を受けることなく、一一月一日にレイテ島オルモックに上陸する(図4-8-2-1)と、レイテ島の防衛にあたることとなり、歩兵第一連隊は、マニラに控置した第二大隊を除く第一・第三大隊をもって第一師団の第三梯団を構成した。一一月一〇日には、連隊は、第二梯団を構成している歩兵第四九連隊(山梨県甲府市)とともに米軍に対する防戦の準備を進めた。
 一四日にビナ山付近に展開していた連隊は、野砲兵第一連隊が陣地を構築しているリモン近郊への移動を命ぜられる。また、マニラに控置されていた第二大隊がレイテ島に到着したが、第二大隊は師団直轄とされた。
 歩兵第一連隊は、猛烈な米軍の砲火を受けつつ、二四日に先行して米軍と戦闘を行っていた歩兵第五七連隊(千葉県佐倉市)の左翼へと移動してリモンの防衛に当たった。なお、師団直轄とされた第二大隊は、リモンの砲兵陣地西南の原口山の防衛にあたり、一二月四日の時点においても同所を維持していたが、その戦力はわずかに三一名にまで減っており、七〇〇名以上の損害を受けていた。
 一方、歩兵第五七連隊と共同して防衛にあたっていた歩兵第一連隊の本隊は、米軍からの激しい砲撃を受けて死傷者が続出し、五七連隊の守備する前線に到達できていなかったが、リモンの砲兵陣地の直近で米軍に対する防戦を続けていた。なお、この時点で、リモン近郊で米軍と激戦を繰り広げていた歩兵第一・第五七連隊および野砲兵第一連隊に対する補給は、フィリピン人ゲリラによる攻撃などに寸断されて、きわめて困難な状況となっていた。
 一二月五日頃には、第一師団の各部隊はすでに大損害を受けており、歩兵第一・第四九・第五七の各連隊の残存戦力は二個中隊程度まで減少していると第一師団司令部は推測していた。すなわち、約二五〇〇名の連隊が、四〇〇名前後までその戦力を失っているということになる。
 一二月一〇日頃にはリモンの野砲兵第一連隊の陣地との連絡が途絶し、砲兵陣地と原口山は米軍によって占領され、野砲兵第一連隊および歩兵第一連隊の第二大隊は全滅したと推測された。
 一二月一五日に第一師団本部は、各部隊に対して死守命令を発したが、二一日には師団本部が米軍による砲撃と戦車による攻撃を受けるに至ったために退却を決定し、カンキボット山まで後退して防戦の準備を進めた。
 その後、第一師団はレイテ島からセブ島への移動を命ぜられ、昭和二〇年一月一〇日に四次に分かれてレイテ島からセブ島へと部隊を移動した。なお、この時にセブ島に移動したのは、歩兵第一・第四九・第五七の各連隊の残存兵力の合計七四三名であった。
 第一師団はセブ島において終戦を迎えたが、レイテ島上陸時には約一万三〇〇〇名の戦力が八〇〇名足らずとなる大損害を受けており、歩兵第一連隊もレイテ島における戦闘で壊滅的打撃を受けた。
 

図4-8-2-1 レイテ島オルモックに上陸する第一師団
『第一師団レイテ決戦の真相』(朝雲新聞社、1977)から転載