歩兵第三連隊は、満州駐留中の昭和一五年(一九四〇)八月一日に、満州の新京で編成された第二八師団に転属となり、第一師団の隷下を離れることになった。
なお、日中戦争の勃発後、広大な中国大陸において拡大し続ける戦線に対応するため、戦略単位としての機能を有する師団を増やす必要に迫られたこともあり、留守部隊を中核とした特設師団をはじめ、新たな師団が編制されている。例えば、東京においても、第一師団の留守部隊によって第一〇一師団が編制され、日中戦争に加わっている。
また、日中戦争後に新設された師団は、従来の四個歩兵連隊を基幹とする編成ではなく、三個歩兵連隊を基幹とする編制に改められている。これは、個々の師団の兵力を減じても、既述のように、戦略単位となる師団の数そのものを急速に増やすための苦肉の策であった。
第二八師団は、歩兵第三・第三〇(新潟県高田市)・第三六(福井県鯖江市)連隊を基幹として編制され、第一師団は、歩兵第一・第四九・第五七連隊を基幹とする編制に改められた。なお、各連隊の兵員の補充は、連隊編制地である内地の各地から受けることに変わりはなかったため、満州移駐後も歩兵第一連隊および第三連隊は東京の連隊区から補充兵の充当を受けた。
アジア・太平洋戦争における歩兵第三連隊の動向について、『聯隊歴史』第五巻に基づいて以下のとおり略述する。歩兵第三連隊は、昭和一六年八月二二日に、満州チチハルの近郊からハルビン近郊の孫家に移駐することが命ぜられ、九月三日に移動を完了した。その後、アジア・太平洋戦争勃発後も孫家に駐屯を続けていたが、昭和一九年六月二七日に第二八師団に出動命令が下った。第二八師団は米軍の反攻に備えて先島諸島の宮古島の防衛にあたることになったのである。このため、第三連隊も移動を開始し、釜山、門司、六連を経て七月二七日に鹿児島に入港した。その後、八月九日に那覇に入港し、一二日には宮古島に到着した。この間、米軍の潜水艦による攻撃などによる損害も出さず、全部隊が宮古島への到着を果たしている。
その後、第三連隊は宮古島における防衛陣地および飛行場の構築に従事しているが、時折、米艦載機による空襲などを受けている。もっとも、戦闘機による機銃掃射などが多いため、大きな損害は出ていない。沖縄本島における米軍の上陸および戦闘は、昭和二〇年四月一日から第三二軍司令部の壊滅により日本軍の組織的抵抗が終結した六月二三日まで続くが、結局、宮古島には米軍は上陸せず、歩兵第三連隊は宮古島において終戦を迎えた。 (門松秀樹)