4-8 コラム 旧陸軍の階級と部隊編制

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 歩兵第一連隊や歩兵第三連隊など、港区域に駐屯していた陸軍の部隊について述べてきたが、どのような部隊なのかわかりにくいかもしれない。そこで陸軍における階級や部隊の編制などについて簡単に説明したい。なお、国や時代などによっても編制や階級が異なることがあるため、昭和一六年(一九四一)頃の日本を例として説明を進める。
 まず、陸軍には、大別して兵・下士官・士官の区別がある。兵は徴兵によって入営した人々であり、二等兵・一等兵・上等兵・兵長の階級がある。入営したての新兵が二等兵であり、兵役二年目以降は一等兵や上等兵となる。日中戦争の長期化によって、一等兵や上等兵が多数となったことから、兵長の階級が昭和一五年に新設された。
 下士官は、兵としての勤務中に志願した者や、下士官適任者として評価された者が任ぜられた。伍長・軍曹・曹長の階級がある。下士官は、指揮官である士官を補佐し、その命令に従って兵を統率する役割を負う。なお、徴兵による兵は国民の義務だが、下士官からは職業軍人となり、官吏としての身分が与えられ、下士官は判任官となる。
 士官は各級部隊の指揮官などを務める幹部といえる。士官のなかで兵科に所属して戦闘部隊の指揮にあたる者を将校と呼ぶ。士官には、尉官・佐官・将官があり、それぞれが大・中・少にランク分けされている。士官になるコースはいくつかあったが、陸軍士官学校を卒業するのが主流であった。士官の養成機関である陸軍士官学校・海軍兵学校は難関だったが、学費はすべて国費で賄われたため、成績優秀だが貧しい家の子弟がこれを目指すことも多かった。
 士官は高等官、今日でいうところの「キャリア」であり、尉官と佐官は奏任官、少将・中将が勅任官、大将は大臣などと同格の親任官であった。なお、国によっては大将の上の階級として元帥が置かれることがあるが、日本の元帥は、大将のなかから「老功卓抜ナル者」が元帥府に列せられて終身の天皇の軍事顧問となることであり、階級としては位置付けられていない。
 また、士官と下士官の間に准士官、いわば下士官の最高階級として准尉が置かれていた。
 次に陸軍の部隊編制について説明する。部隊の規模が小さい順に、分隊・小隊・中隊・大隊・連隊・旅団・師団・軍・方面軍・総軍となる。分隊は一二名程度が基本となり、軍曹が隊長を務める。小隊は四個分隊が基本となり、少尉が隊長を務める。ただし、分隊や小隊は戦時編制において設置される部隊であるため、平時には設置されていない。
 中隊は四個小隊が基本となり、大尉が隊長を務める。大隊は三個歩兵中隊と機関銃中隊(機関銃四丁・一六五名)・歩兵砲小隊(砲二門・二二名)が基本となり、少佐が隊長を務める。連隊は三個歩兵大隊と歩兵砲中隊(二個小隊)・速射砲中隊(二個小隊)・通信中隊が基本となり、大佐が隊長を務めた。旅団は二個歩兵連隊を基本とし、少将が旅団長を務めた。師団は三個歩兵連隊と騎兵連隊(のちに捜索連隊)・砲兵連隊・工兵連隊・輜重(しちょう)連隊と野戦病院や衛生部、通信隊などから成る師団直轄を基本とし、中将が師団長を務めた。なお、歩兵以外は大隊を持たないため連隊といっても規模が小さい場合もあり、騎兵連隊や工兵連隊は五〇〇名程度となることが多かった。一方、師団所属の砲兵連隊は、破壊力と重量のある野砲を運用するため二〇〇〇名程度の規模となり、また、物資の輸送・補給にあたる輜重連隊は、自動車を主体とする場合は五〇〇名程度、人馬を主体とする場合は三〇〇〇名程度となる場合が多かった。軍以上は、基本的には戦時に編制され、複数の師団を指揮下に置くのが軍(司令官は中将)、複数の軍を指揮下に置いて地域全体の作戦を担当するのが方面軍(司令官は大将)、複数の方面軍や軍を統括するのが総軍(司令官は大将)となる。  (門松秀樹)
 

図4-8-コラム-1 四単位編制師団模式図(戦時)
日中戦争以前の標準的編制

図4-8-コラム-2 三単位編制師団模式図(戦時)
アジア・太平洋戦争時の標準的編制