芝区のなかでも、とくに江戸情緒を残していたのは神明と呼ばれた芝大神宮の周辺であったようだ。江戸時代より「都南随一の盛り場」(加藤 一九五六)といわれていたが、小説家の村松梢風(しょうふう)は「明治末から大正となっては、江戸の面影を多少でも留めている土地といえば、東京中で先ずこの神明であったろう」(村松 一九五八)と回想している。神明に一年ほど下宿した村松は、この地に強い思い入れをもっており、『灯影綺談』でもこの町の活気ある様子をいきいきと描いている。この辺りは神明芸妓や矢場でも知られていた。村松によれば芝大神宮に向かって左手の一廓は花街として待合が立ち並び、右手の一廓は矢場であったという。もっとも、村松の頃には矢場は二軒しか残っておらず、ほとんどは銘酒店に変わっていたらしい。なお、矢場や銘酒店については『新編東京繁昌記』に詳しいが、いずれも男性の接客を目的とした私娼的性格の強い店である。
芝大神宮から新橋方面へ向かうと、いわゆる日陰通りに出る。日陰通りとは、日陰町および露月町、源助町、柴井町の裏通りの通称で、現在の新橋駅の西側、新橋五~六丁目辺にあたる。「古本屋を見てひやかして歩くこと」を楽しみにしていた若き日の田山花袋(かたい)は、池の端の二三軒や神田の明神下、湯島の細い阪路と並び、芝の露月町の細い巷路に通ったと回想しているが(田山 一九一七)、ここは日用雑貨が何でもそろう場所だった。例えば明治三五年(一九〇二)に刊行された『改訂増補東京名物志』では、「狭小なる街路を挟みて両側には和洋古衣出来合新衣古道具等所謂日陰町物を販ぐの店舗櫛比し柳原と好一対の名所なり又其他百貨の店あるを以て需むる所物として得ざるなく下層社会の為には便利なる土地なり」と紹介している。しかし、住民たちにとっては便利であっても、観光客が気軽に行くのはいささか危険であったようだ。同三四年に刊行された『東京横浜一週間案内』では、「有名なる日陰町の古着、古物の市をひやかして新橋に立ち戻るべし」と勧めつつ、「イカサマもの誤魔化しものゝ本場にて一円位の品を五円八円位に売るは平気なり先づ大体半分直((ママ))ならば喜で売るべし決して古着、古物には手を出さぬをよしとす」と注意を呼び掛けているのである。ちなみに、同書が安心安全に買い物をするため「東京に不案内なる人には、尤も都合よき場所なり」として薦めているのは、芝公園内に明治二一年に開設された東京勧工場であった。