芝区の増上寺は、福澤諭吉が「其最新にして最も美大壮麗を極め、唯日本国の壮観のみに非ず世界中殆ど無比と称す可きものは、日光山を第一とし、芝上野これに亜(つ)ぐ」(慶應義塾編 一九七〇)とまで絶賛した仏閣だが、その境内の一部が明治六年(一八七三)一〇月、芝公園として―浅草公園や上野公園などとともに―日本初の公園となっていた。
明治三〇年に刊行された『新撰東京名所図会』六編(『風俗画報』臨時増刊一四三号)によると、公園内には「苔香園」、「薔薇園」、「丸山花園」などの花木園があり、「福住温泉」(明治一四年以降は料理店のみ営業)や「和倉温泉」などの温泉施設、名物のきんつば屋などもあった。弁天堂の蓮の花も有名で、市内で花をめでるために蓮を育てていたのは芝公園と上野の不忍池のみだったという(津田編 一九〇六)。
「当今芝区に於て最名声高き会席」(金子編 一八九七)と称され、女中たちによる紅葉踊りでもよく知られた「紅葉館」や、当時珍しかったフランス料理を出す「三縁亭」なども公園内にあり大変賑わっていた。
また、公園内の丘陵地であった丸山は、眼下に広がる海上の眺望が有名で茶屋などもあったが、明治二六年九月、人類学者の坪井正五郎(しょうごろう)によって埴輪や土器が発見され古墳であると推定された。今ではとても考えられないことだが、丸山が古墳だと聞いた人々は、思い思いに土器などの破片を発掘し自由に持ち帰ったらしい。坪井はそのことについて「予等(われら)二三のものが証拠だつるよりも、多数の遊観者が其地に就きて形状遺物を云々するは大に喜ぶべし」(『読売新聞』明治二六年九月一七日付)とインタビューに答えている。当時ののんびりした芝公園の風景がうかがえよう。