愛宕山

325 ~ 326 / 405ページ
 先に庶民の娯楽として寄席が人気であったと述べたが、下町に住むことを好んだ明治期の大名人三遊亭圓朝は、高座から退いたのちの数年間を愛宕山近くの実業家・馬越恭平の邸内(現在の虎ノ門ヒルズ辺)で過ごした。
 武蔵野台地の末端にあって独立した標高約二六メートルのこの山は、「真に是れ東京市内眺望の最たるものなり」(瀬川編 一九〇〇)と評されるなど、江戸時代より眺望の良さでよく知られており、元旦には初日の出を見に多くの人々が集まっていた(図5-1-1-1)。山頂には愛宕神社があり、境内は明治一九年(一八八六)に公園となった。明治二二年にはレンガ造り二階建ての「愛宕館」および五階建ての展望台「愛宕塔」が建設され、東京三大塔(残りの二つは浅草の「凌雲閣」と「江木写真館新橋支店」)の一つとして、明治二〇年代の高塔ブームを牽引した。
 その後、横浜の汽船問屋鹿島屋の東京ホテルの前経営者が愛宕館を購入し、ホテル愛宕館として開業した(佐藤 二〇一二)。明治四〇年に刊行された『最近東京明覧』では、「ホテルと称すべきものは僅かに帝国ホテル、メトロポールホテル、セントラルホテル、精養軒、愛宕館等の数軒に過ぎず」とし、ホテル愛宕館について「宿泊料は一等一日七円、二等一日金五円、三等一日金四円にして宿泊以外の来客に対しては朝食七十銭、昼食料金八十銭晩食料金一円、其他は普通一人前一円とす」と紹介している。なお、同書によれば、旅館の宿泊料は「上等旅館の上等一日(夜具絹布)で金三円」だったというから、ホテルがいかに高級であったかがわかる。『東京新繁昌記』では、ホテル愛宕館について「料理も和洋何れにても客の好みに従ふが故頗る便利の家なり」と紹介しており、評判も良かったようである。
 

図5-1-1-1 「芝愛宕山頭眺望之図」

『風俗画報第151号臨時増刊 新撰東京名所図会 第9編:麴町、愛宕、清水谷公園・全』(東陽堂、1897)から転載
法政大学江戸東京研究センター所蔵