明治期になると、愛宕山より南の愛宕下町(現在の新橋三~六丁目)から日陰町(現在の新橋二丁目)、烏森町(現在の新橋二丁目)にかけて、烏森と呼ばれる花街が形成された。もともと、江戸時代以来、東京市内には柳橋や日本橋など数多くの花街があったが、明治維新を迎えると、諸官庁から近いこともあって、新橋花街が急速に発展した。新橋花街とは、現在の首都高速の下に流れていた汐留川を挟んで、銀座と新橋の両地域に広がった花街であった。とくに川向こうの銀座側を新橋煉瓦地と呼び、新橋側を新橋南地または烏森花街と呼んだ。
幕末期には新橋周辺に久保町芸妓と呼ばれる芸妓たちがいたようだが、その後、明治五年(一八七二)二月の銀座大火の際、京橋区新橋(現在の東京都中央区銀座)の芸妓たちが汐留川を越えて、烏森神社の周りへ避難してきた。明治八年刊行の『諸芸人名録』をみると、芸妓たちは中川、分部、溝口の藩邸跡にかたまって店を構えている。こうして、烏森花街の基礎ができた。のちに烏森第一と称された「湖月」(当時は孤月)が店を構えたのもこの頃という。明治一〇年に銀座の煉瓦街が完成すると、多くの新橋芸妓は戻っていったが、防火建築の煉瓦家屋は病気を起こす恐れがあるとの流言を信じて躊躇(ちゅうちょ)する者や、芸妓の稼業に西洋建築は不似合いだと居残る者もいて、烏森にも花街ができあがったという。こうして新橋の花街は、東京一の面積を有するようになり、台東区の柳橋などを凌(しの)ぐ花街に発展していったのである。
『日本花街志』を著した加藤藤吉によれば、その烏森花街で三井や岩崎といった財閥連から政府高官まで広く愛されたのが、明治九年四月、芝区日陰町一丁目一番地に開業した花やしき「浜の家」だった。浜の家の女将小浜は小股の切れ上がった生粋の江戸っ子で、古くは上京したばかりの井上馨が熱をあげ、女嫌いで有名だった副島種臣も小浜に会いに浜の家へ通ったらしい。後には、頭山満も小浜と肝胆相照らし三年ほど滞留したという。頭山が逗留した明治二五年前後は、井上のほか伊藤博文や山縣有朋など長州出身の政府高官たちが入り浸っており、政界の動静は浜の家に集まる馬車や人力車によって推定されるといわれ、新聞記者がいつも張っていたという。現在でもよく使われる待合政治という言葉は、この花やしき浜の家から生まれたという説もあるほどであったと加藤は述べているが、真偽のほどはわからない。
明治期を通して烏森の花街は新橋煉瓦地とほぼ一体であったが、徐々に芸妓間の対抗意識が芽生え、大正期には汐留川を境として分裂した。旅行作家の松川二郎は、「此地は新橋の分店のやうな花街で、分店は畢竟分店だけのものであるが、北地に負けまいといふ意地があつて、芸事にはなか/\熱心で、且つ品位も相当維持されてゐる」(松川 一九三二)と記している。