芝浦と海水浴場

328 ~ 330 / 405ページ
 芝区には神明と烏森に加え、芝浦にも花街があった。
 落語の「芝浜」でよく知られる芝浦は、江戸前の漁場として知られた風光明媚な海岸で、月見や潮干狩りなどで賑わった場所であった。とくに旧暦の三月初旬は絶好の潮干狩りシーズンで、浜には人があふれ、大福餅や塩煎餅などを売る店が軒を連ね繁昌したという(『東京朝日新聞』明治二四年四月一二日付)。
 このようなのどかな芝浦が大きく変わる転機となったのは、明治五年(一八七二)の鉄道の開通であった。新橋―横浜間に鉄道が開通された際、高輪海岸では海中に堤防を築いて線路が通され、これが文明開化を象徴する新たな風物となったのである(図5-1-1-2)。さらに明治一〇年、医師の鐘ヶ江晴朝(かながえせいちょう)が潮湯治のため海水浴場の開設を東京府に願い出て許可され、次々と海水浴場が開かれることになった。明治一四年刊行の『掌中東京名所図絵』では、「海水浴は金杉にあり諸病に効ありとて都人浴する者多し海岸にて眺望も好く涼しければ盛夏は殊に遊人多し浴料六銭なり」と紹介されている。
 芝浦は「都心に近い所であり、眺望は好く、居乍らにして海水温浴で汗を流し蟹や黒鯛で一杯やれる簡便な避暑法が、当時の風流客に喜ばれ」(加藤 一九五六)、「芝浦海水浴」(芝金杉新浜町)や「大野家」(芝金杉)、「見晴亭」(芝金杉浜町)など温浴や活魚を売りとした大型の料亭が相次いで開かれ活況を呈した。芝浦海水浴は明治三六年、近辺に類似の同業者が増加して紛らわしいため「竹芝館」と改名したほどである(『読売新聞』明治三六年九月一五日付)。また、芝区三田四国町(現在の芝三丁目)の本店をはじめ東京市内に手広く二二店舗の牛鍋店「いろは」を営んだ木村荘平(一八四一~一九〇六)は、鉱泉浴場と旅館を兼ねた「芝浜館」(本芝)と料亭「芝浦館」を開き大いに流行った。なお、明治二八年の芝浜館開館の広告は次のとおりである(『読売新聞』明治二八年八月一三日付)。
 
 本泉医治効用
 各種の肺病○咽喉の慢性加多児○慢性気管支加多児○喘息等の諸病○胃○腸○肝○脾の諸病○骨症○僂摩質斯○痛風○慢性神経痛○泌尿及び生殖器の諸病○殊に婦人の白帯下又内服すれば飲食の消化を能くし以上の諸病に効あり
 浴場は海岸に建築致し極て涼く市中より寒暖計十度以上低く見晴しの絶景なる鬱気を散し衛生にも宜しく酷暑の候には頗る避暑に適し御手軽を専一と致し候間開業の当日より陸続御来車被成下度奉願候
 
 たしかに風光明媚で大変に過ごしやすく、これだけの効用をうたえば、多くの人で賑わっても不思議ではないだろう。
 当初、芝浦では神明から芸妓を呼んでいたが、それでは大変に時間がかかるというので、芝浦にも花街ができていくのである。明治三五年五月、芸妓屋の「松崎」が開いたのを端緒として、明治末期には芸妓屋は二八軒を数えるまでになっている。
 

図5-1-1-2 「東京名勝之内 高輪蒸気車鉄道全図」
二代歌川国輝 明治5年(1872)