芝浦は一時、花火でも有名だった。芝浦の花火大会は、柳橋花街と競争しようという神明や芝浦の人々の発起によって始まったらしく、両国の川開きに合わせて行われた(『読売新聞』明治三四年八月一五日付)。初めて花火大会を試みた明治二九年(一八九六)九月は、打ち上げの際に次々と着火してしまい残念ながら失敗に終わるが、翌年からは水神祭の花火として芝浦の風物詩となっていく。木村荘八は「芝浦の花火は多摩川に先立って『第二級花火』の恒例となりかけたもの」(木村著、尾崎編 一九九三)と記しているが、規模では劣るものの、一時は両国にも引けをとらぬほどの盛況だったようである。例えば、明治三八年八月一七日付の『読売新聞』によれば、この年の芝浦の花火は、「陸上は雑踏の為め迚も見物することならねば乗合船も乗り切れぬほどの混雑を極め」た景況で、「ドーンと花火の打揚がる毎に陸海より玉屋鍵屋と叫び立つるも喧しく両国の川開きにも劣らぬ盛況」であったという。海上には札幌ビールや恵比寿ビールの広告船が浮かび、「竹芝館の横手なる山崎方には札幌ビール会社の観覧所を設けられ招待の客も多き事とて庭内にビーヤホールを設け芸妓等も入込みて賑々しき様子なりし」と報じている。
しかし、芝浦の賑わいは、ロセッタホテルが開業した頃から変わり始めていく。
ロセッタホテルとは、巨大な汽船ロセッタ丸を改造し、大光館(本芝)の前の桟橋に停留させ、ホテルとしたものである。ロセッタ丸は、東洋汽船が香港・マニラ間運航のためにイギリスから購入した汽船で、のちに尾城汽船が買い取りホテルとした。物珍しさから一時は流行ったようだが、すでに芝浦の埋め立て工事が始まっていたこともあって、数年で閉鎖されてしまった。
芝浦の花火も一帯の埋め立てとともに姿を消した。最後に花火の広告を確認できるのは明治四一年八月のことである。大正六年(一九一七)八月には六年振りの花火大会が催され大盛況だったと『読売新聞』などで報じられているが、それ以降、花火が行われた記録は確認できない。