スポーツの濫觴の地となった芝浦埋立地

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 隅田川口改良第一期工事として、明治三九年(一九〇六)から大正二年(一九一三)にかけて芝浦の海岸は埋め立てが進み、広大な埋立地が完成した。
 明治四三年(一九一〇)一一月、白瀬矗(しらせのぶ)率いる南極探検隊の送別会はこの新しい埋立地で開催され、三万を超える人々が集まったというが、その後、この埋立地は使い道のないまましばらく放置される。ところが、ここが近代日本における新たな文化・スポーツの濫觴(らんしょう)の地となった。
 大正四年(一九一五)八月、大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)主催の第二回水上大会がロセッタホテル跡(現在の海岸三丁目付近)で開催され、翌年には、第三回極東競技大会の予選を兼ねた第四回陸上大会と第三回水上大会が開催されることになった。水上大会はコレラ流行のため延期となったが、陸上大会は開催され大盛況だったという。
 第三回極東競技大会は、大正六年五月八日から一二日まで、日本・中国・フィリピンの選手たちにより芝浦埋立地で開催された。第一回、第二回ともに日本は芳しい成績を残せていなかったが、本大会では陸上、水泳をはじめ日本の選手たちは健闘し、初優勝を果たした。スポーツ記者の広瀬謙三は、「此大会に依りて日本の運動界は俄然覚醒と猛進の域に到達し国内には凄じい体育熱が台頭して来た」(広瀬 一九二五)と総括しており、日本においてスポーツが盛り上がる大きなきっかけとなったようである。
 また、大正八年末には実業家・代議士として活躍した中野貫一が中心となり、埋立一号地に野球場を作る計画が持ち上がった(『読売新聞』大正八年一二月一三日付)。この計画は、ブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)が本拠地としていたエベッツ・フィールドとプリンストン大学の球場をモデルとした収容定員三万人超という大事業であった。その後、第一次世界大戦の戦後不況のあおりを受け、一時は事業がとん挫してしまうが、「日本にもプロ野球を」という機運の高まりもあり、早稲田大学OBの河野安通志(あつし)や押川清、橋本信らが中心となって合資会社日本運動協会を設立し、同事業を継承することとなった。こうして大正一〇年三月、同地に芝浦球場が開場する。この球場は当初の計画に比べ規模が縮小されたが、ネット裏と一・三塁側の内野に木造スタンドがあり、外野の立ち見席も含めれば約二万人の収容が可能だったという。また、この球場には陸上トラックのほかテニスコートやクラブハウスもあった。同事業を進めた日本運動協会は、運動を中心とした一大社交クラブを目指したのである。
 芝浦野球場での最初の試合は、慶應義塾大学と早稲田大学それぞれのOBを中心に組織された稲門倶楽部と三田倶楽部の間で行われた(三田倶楽部が六対三で勝利)。大正一一年一〇月には、アメリカのアメリカンナショナル両リーグに所属するメジャーリーガーで組織された野球団一行が来日し、六試合が行われている。対戦したのは慶應義塾大学・早稲田大学・三田倶楽部・稲門倶楽部で、三田倶楽部が一勝するものの、ほかの試合は圧倒的な大差で敗れてしまった。
 日本運動協会は、押川清監督のもと日本初となる職業野球団も組織した。海外からの応募も含めた二〇〇名を超える応募者のなかから一四名が選ばれ、日本初のプロ野球チームが誕生したのである。選手たちはクラブハウスで寝起きしながら練習に励み、大正一一年六月から七月にかけて朝鮮と満州へ遠征しチームの強化に努めた。こうして同年九月九日、ついに芝浦球場で初試合に臨むこととなった。対戦相手は早稲田大学で、九日と一〇日に二試合が行われたが、両試合とも敗れてしまった。
 この後、大正一二年に関東大震災が起きると、芝浦球場は救援物資の置き場となり、スタンドは取り壊され、グランド内に倉庫が建つなど、選手たちは練習もできない状況に追い込まれてしまった。年を越しても事態は改善せず、日本運動協会は解散を余儀なくされたが、球団は阪急電鉄の小林一三(いちぞう)が引き継ぎ、宝塚野球協会と名を変え存続することとなった。