スポーツ濫觴の地となったのは芝浦埋立地だけではなかった。先述した芝公園内にも大正九年(一九二〇)、井の頭公園などとともに東京府営のプールを建設する計画が持ち上がり、大正一二年八月、(府営ではなく)東京市営のプールが開場した。水槽部は五〇メートル×一六メートルの大きさを誇り、北側の一画には水深の浅い児童用のエリアも設けられていた。普段は男性のみの利用とされたが、毎週月曜日(のち水曜日に変更)には婦人デーとして女性に解放された。プールの人気は高く、入場者が一日一六〇〇人を超える日も多くあったという(『読売新聞』大正一四年七月六日付および文部省編 一九二七)。
芝公園のプールでは、全日本選手権水泳大会(大正一二年、一三年)や全国学生水上競技会(大正一五年~昭和三年)、全国女子水泳選手権大会(万朝報主催、大正一三年~昭和二年)が開催されるなど、東京における競技水泳の中心的な役割を果たした。また、昭和二年(一九二七)四月には、プールに隣接して陸上競技場も開場している。
しかし、芝公園のプールも競技用としては決して満足のいく施設ではなかったようだ。大正一四年度の『運動年鑑』では、芝公園のプールには観覧席がないため競技用として不適当であるが、「全日本的の意味を持つた競技会でも開かれる場合には芝公園の市設水泳場で行ふより致方がない様な情けない有様である」と嘆いている。
このように、芝浦埋立地や芝公園のプールは近代日本のスポーツの草創期を支えたが、施設として十分なものではなかった。そのため、明治神宮外苑に陸上競技場(大正一三年)、野球場(昭和二年)、プール(昭和五年)が完成すると、スポーツの中心地は明治神宮外苑に移ってしまう。
しかし、芝浦埋立地や芝公園がスポーツ濫觴の地として大変に盛り上がったことが影響したかは定かではないが、芝区では体育・スポーツの普及が積極的に進められたようだ。昭和五年刊行の『帝都復興史』では次のように記されている。
小学教育中当区の最も力を注ぐは児童の体育にして、教育会及区学務委員等と提携して積極的に諸種の計画を樹てまた経済の許す範囲に於て凡ゆる体育施設をなすは勿論、区内小学校の全部に夫々体育部、唱歌部、理科部の三部を設け、体育部に対しては教育会費の一部を割いて体育奨励費に充て春秋二期に区内小学校連合大運動会を開催し優勝旗の争奪をなさしめて奨励の一助としてゐる。又区民一般に対しても小学児童に対すると同じく体育を奨励し、殊に青年団、少年団に対しては凡ゆる機会に於て体育の必要を説き又常に之を援助奨励しつゝある。従つて区民は一般に体育に理解を有し且つ青年団、在郷軍人団等の向上発展にも意を注ぐ傾向顕著なるものがある。