芝浦スケート場

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 明治神宮外苑の完成によって多くのスポーツの中心は区内から移ってしまったが、芝浦埋立地はその後、再び新たなスポーツの中心地となった。昭和八年(一九三三)一一月、埋立地四号に東洋一をうたう芝浦スケート場が開場したのである。
 芝浦スケート場は、結氷面二五メートル×六〇メートルの広さを誇る日本で初めての国際標準型のスケートリンクであった(『東京朝日新聞』昭和八年一一月一一日付)。
 ここでは昭和九年以降、全国学生氷上競技選手権大会と全日本氷上競技選手権大会のフィギアスケートとアイスホッケーの競技が行われた(フィギアスケートは昭和一〇年から。なお、両競技とも、麴町区の山王ホテルに設けられた山王リンクも一部使用した)。また、昭和一〇年二月にはオリンピックで二度の銀メダルに輝いたオーストリアのフリーツィ・ブルガーがエキシビションを行い、「十、十一日両日とも指定席、普通席ともに切符はもう売切れたが、それでも何とかこの妙技を観んものと、熱心な人々がリンクの入口に混雑を呈してゐる」ほどの人気で、追加公演も行われた(『東京朝日新聞』昭和一〇年二月一一、一二日付)。
 さらに翌年一二月、札幌で開催予定だった四年後の第五回冬季オリンピック(第二次世界大戦勃発のため中止)に備え、国内での普及発展を図るため、芝浦スケート場に全日本カーリング倶楽部(会長は公爵一条実孝)が発足した。昭和一二年一月には、山中湖で初めての全日本カーリング選手権大会が開催され、翌一三年二月には長野県岡谷市で第二回大会が開催されている。ただし、この後のカーリング界の動向は不明である(『読売新聞』昭和一一年一二月一八日付、昭和一二年一月一八日付、昭和一三年二月一日付)。
 芝浦スケート場では、東都五大学アイスホッケーリーグ(東京帝国大学〈現在の東京大学〉・早稲田大学・慶應義塾大学・明治大学・立教大学)をはじめ、大学チームのほか実業団チームも参加した全日本アイスホッケー選手権大会や、関東実業団アイスホッケー大会が開催された。また、昭和一〇年三月には、第四回冬季オリンピックへの強化のため、大日本スケート協会の招聘により、前年の世界選手権で優勝した選手数名を含んだバトルフォード・ミラー・アイスホッケーチームがカナダから来日し、芝浦スケート場で六試合(ほかに京都で慶應義塾大学と一試合)を行った。対戦相手は全学生・全日本・満州医科大学・苫小牧王子製紙(現在のレッドイーグルス北海道)・日光古河電工(廃部後現在のH・C・栃木日光アイスバックスが誕生)で、バトルフォード・ミラーが全戦圧勝して帰国している。
 このように芝浦スケート場は、戦前におけるアイスホッケーの聖地として多くの熱戦が繰り広げられたが、アジア・太平洋戦争の悪化によって大学リーグは昭和一七年一一月に行われた秋季試合を最後に中止となった。そして昭和二〇年五月、芝浦スケート場は空襲によって被災してしまったという(港区ホームページ「写真今昔物語」第一七話)。
 芝区は明治以降、江戸の下町情緒を色濃く残す一方で、海水浴やスポーツなど新たな文化の濫觴の地ともなった。芝区は近代においても文明の入り口としての役割を果たしたのである。  (後藤 新)