パリに渡ったのは、芝区烏森の料亭「扇芳亭」の女将おくに率いる九名の芸妓たちであった。万博会場に「世界一周パノラマ館」を建設したフランスの汽船会社メッサージュリー・マリチームは日本の芸妓を舞台に立たせようと考え、奥宮健之(のち、大逆事件に連座し死刑)らを通じ、「扇芳亭」の主人岩間芳松に声をかけたのである。当初、芸妓はなかなか集まらなかったが、パリ渡航を熱望したおくにが熱心に誘い、烏森「すみ家」の若太郎(二三歳)、すみ子(一六歳)、太助(三一歳)、喜扇(一六歳)、勝太(一七歳)、寿美龍(一六歳)、いと(三四歳)、新橋「浜武蔵」の半玉蝶々(一三歳)、下谷のまん(二一歳)の九名が集まった。警視庁の調べによれば、手当は一人四〇〇円だったという。これに髪結の厚川わか、下女の堀江かねと荒井つね、料理人の加藤金之助(のちの五代目三升家小勝)、さらに監督兼通訳として奥宮と大林通三、内倉八重などが加わった。おくに一行は明治三三年二月一五日に新橋駅を出発し、翌日、横浜港から一路、パリを目指し出航した。
おくには、これを機に日本演芸の美をヨーロッパの人々に示し、併せて西洋人の交際の仕方も学ぼうと意気込んでいた。しかし、警視庁や外務省は、それは表向きの目的に過ぎず、海外で醜業を営むのではないかと恐れていた(実際に明治二六年のシカゴ万国博覧会では、三〇〇人の娼妓をアメリカへ送り込み一儲けしようとする動きがあった)。おくに一行の渡航に、パリで準備を進めていた臨時博覧会事務局も驚き慌てた。シカゴ万博では、事務局の目を逃れて見せ物が興行され醜態をさらしたらしく、事務官長林忠正はフランスの事務局に、林らの事前の許可なしに興行をさせないよう強硬に申し入れた。しかし、フランス側には聞き入れられなかった。ただし、パノラマ館が、表立った手続きは行わないものの、林らの意向に従うことを約束したため、烏森芸妓は無事にパリで舞台に立つことができた。なお、パノラマ館の用意した通訳は、風刺画で有名なジョルジュ・ビゴーである。
五月二五日付の『読売新聞』では、烏森芸妓たちの舞台の様子を次のように紹介している。
四人の雛妓は、友仙縮緬の振袖優さしく、胡蝶の如く舞ふと共に五人の芸妓三絃太鼓鼓を合奏し傍に鹿爪らしく琴を弾するものあり三人の老妓は衣装方となりて舞台と楽屋に諸般の世話に当り舞台の後面には日光の勝景五重塔、陽明門、大日堂等を写出せる等用意中々周到なるものあり
『読売新聞』の記者は、烏森芸妓は場中最一の呼物で「優美閑雅の域に入りたるものなれば非常に観客の喝采を博しつつあり」と記している。同胞の身びいきもあるだろうが、パリでは玉子こと寿美龍が大人気を博し、また、すみ子の滑稽踊りが非常にうけるなど、烏森芸妓たちが人々の心を掴んだことは間違いない。ちょうどこの頃、オペラ「ゲイシャ」が大人気を博しており、本物の芸妓に対する関心が高かったことも幸いしたようである。
烏森芸妓の人気は高く、パリ万博終了とともに帰国した数名を除き、おくに一行はデンマーク・ロシア・ハンガリー・オーストリア・ドイツ・イギリスを回り興行を続けた。さらに興行を続けるよう勧められたようだが、もともと金儲けのために来たわけではないからと断り、明治三五年一月三日に帰京する。行く先々で、ヨーロッパの女性たちは着物を着たがり、また、髪形や化粧も日本風にしたがったという。ただし、日本の踊りがそのままでは受け入れられず、手足の振りを賑やかにして音楽も変えるなど、苦労も多かったようだ。
帰国後、芸妓たちは洋行芸妓と持てはやされたようで、例えば、すみ子は明治三七年に刊行された『東京芸妓評判録』上編で、「唐国ならぬ欧州の土産話をきかまほしき奇好(ものずき)連は先を争ふて口を懸けるものから南地稀有の流行妓」(岩波編 一九〇四)と紹介されている。 (後藤 新)
図5-1-コラム-1 パリ万博での烏森芸妓たち
国立国会図書館 電子展示会「博覧会――近代技術の展示場」から転載
図5-1-コラム-2 パリに舞う烏森芸妓
鹿島桜巷編『談叢』第二編(鳴皐書院、1901)から転載
資料提供:国立国会図書館