麻布区について、紀行文の大家として知られる遅塚麗水(ちづかれいすい)は大正五年(一九一六)刊行の『東京大観』で、「徳川の世はいはず、明治以来市の発展に連れて区の隅々まで開らけて来たが、天現寺からつゞく広尾町、昔は土筆(つくし)が岡とも呼んで摘草の名所、鳴虫の名所、一瓢を肩にして十徳姿の枯野見とも洒落れたところ、今も尚ほ芒花(ほうか)雪のごとく、野橋茅店、頗ぶる古武蔵野の趣きがある」と紹介している。
広尾は麻布区のなかでも最も西方に位置していたから、とくに古武蔵野の趣が強かったと思われるかもしれないが、そうではなかった。大正七年から昭和一一年(一九三六)まで飯倉町(現在の麻布台三丁目)で過ごした小説家の島崎藤村は、パリから帰国して初めての冬について、「久しぶりで東京の郊外に冬籠りした(中略)私の側へ来てさゝやいて居たのは、たしかに武蔵野の『冬』だつた」(島崎 一九三一)と記している。
飯倉町は、明治三四年(一九〇一)に刊行された『新撰東京名所図会』で「商況殷賑の巷なり」と紹介されているが、島崎が過ごした台地の上は、やはり古武蔵野の趣を感じさせる雰囲気を残していたようである。島崎はさらに、「飯倉附近」で「どうかすると梟の啼声なぞが、この町中で聞える」として、「下町の方に住む人達の中には今だに藪だらけの高台のように麻布の奥を考えているものもあるらしい。そういう人達ですら、梟の話ばかりは信じまいかと思う」と記しているほどであった。もちろん、島崎が飯倉町へ移り住んだ頃、都市化の波はすでに麻布区にもやってきていた。例えば、島崎が帰国した同年に刊行された『東都新繁昌記』では、「人口の増加と、産業の発達と、交通機関の完備に、麻布は日に、月に、都会的気分を加へて、場末的色彩は薄らいでゆくのである」と指摘されている。それでも麻布区は全体的に、東京市の郊外として頗る古武蔵野の趣を感じさせる地域だったようである。
小説家の永井荷風も麻布区の古武蔵野の趣を愛した一人だった。永井は大正九年(一九二〇)から昭和二〇年(一九四五)まで、市兵衛町(現在の六本木一丁目)の偏奇館と名付けたペンキ塗りの二階家で過ごした。永井は『麻布雑記』で、「今住んでゐる麻布の地を愛してゐる」理由を、「それはわが家の近鄰坂と崖ばかりなので樹木と雑草とを見ることが多い故である」とし、「現代の東京市中に卜居してかくの如く落葉に親しむ事の出来るのはせめて不幸中の幸である」と記している。
麻布区はその大半が武蔵野台地に占められており、崖上は明治期より高級住宅地となっていた。詩人の戸川安宅(やすいえ)(残花)は明治四五年(一九一二)刊行の『江戸史蹟』で、「今でも麻布は屋敷のみ多く、町家は数へるほどであるが、僅かに新網町、網代町、永坂町あたりが町らしきのみ、其の他は庭園の多い屋敷である。区の西部、広尾町などは、広尾の原が新開町になツた所で、小石川、牛込、四谷などに比して、更に一層の屋敷町の区と謂ツてよい」と紹介している。
そのなかには江戸時代以来の屋敷も多く残っていたようである。島崎は、先に紹介した「飯倉附近」で、関東大震災後の飯倉町について次のように記している。
この飯倉附近にある古いものが、にわかに光って見えて来た。何故かなら、こゝにある古い商家の黒光りのした壁、その紺暖簾(こんのれん)のかゝった深い軒なぞは、今ではもう日本橋あたりにも見られないものであろうから。私はあの石町、大伝馬町それから橘町あたりに軒を連ね甍(いらか)を並べていた、震災以前の商家の光景を忘れることの出来ないものであるだけに、一層この感が深い。この界隈には安政の大地震にすらびくともしなかつたというような、江戸時代からの古い商家の建物もある。