坂上と坂下

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 麻布区の崖上は、早くから大小様々な邸宅が立ち並ぶ高級住宅地となっていたが、区内で生まれ育った小説家の岡本かの子が「金魚繚乱」で、崖邸(坂上)の新興商人の娘真左子と崖下(坂下)の金魚屋の跡取りとして理想の新魚に命をかける復一の叶わぬ恋を描いたように、麻布区の生活文化は坂上と坂下で大きく異なっていた。
 例えば、飯倉町のお屋敷の子として生まれた小説家の水上滝太郎は、「山の手の子」で、明治三〇年(一八九七)頃の坂上と坂下について次のように回想している。
 
 私の生れた黒門の内は、家も庭もじめじめと暗かつた。さる旗本の古屋敷で、往来から見ても塀の上に蒼黒い樹木の茂りが家を隠して居た。可成(かなり)広い庭も、大木が造る影に全体(すっかり)苔蒸して日中も夜のやうだつた。(中略)物心つく頃から私は此の陰気な家を嫌つた。そして時たま乳母の背に負はれて黒門を出る機会があると坂下のカラカラに乾き切つた往来で、獨楽廻しやメンコをする町の子を見て、自分も乳母の手を離れて、あんなに多勢の友達と一緒に遊び度いと思ふ心を強くするのみであつた。
 
 暗闇の多い坂上の屋敷町に住む私は、乳母から「町つ子とお遊びになつてはいけません」といわれており、「彼(あ)の坂下の賑はひの中に飛(とん)で行き度い程一人ぼつちの自分がうら淋しく思はれ」ていた。私はその後、坂下の子らと仲良くなり、年上のお鶴という少女に淡い恋心を持つ。しかし、山の手の子と坂下の子が交わることは難しかった。町内総出で向島までお花見に向かう一行に私は加わることを許されず、「一人花見連とは反対に坂を登つて、やがて恨めしい黒門の中に吸はれ」るしかなかったのである。そして私の回想は、お鶴が「隅田川の辺(ほと)り」の芸者屋に買われるところで終わる。
 このように坂上と坂下の生活は大きく異なっており、暗闇の多い坂上の屋敷町に住む私にとって坂下は光り輝いてみえたのである。しかし、お鶴の未来が示すように、坂下はまた別の意味でじめじめとした暗さをもっていた。
 明治四〇年に生まれた作家の高見順は、麻布竹谷町(現在の南麻布一丁目)で幼少期を過ごした。麻布竹谷町は、明治三四年刊行の『新撰東京名所図会』では「区域狭くして人家も疎なれば。至て寂寞の地なり」と記されているが、高見が移り住んだ頃には、東京市内の工業化に伴い、人家が急増していた。
 高見少年たち町の子らにとって大きな楽しみの一つは大雨だったようで、「ある魂の告白」で次のように回想している。
 
 大概の屋敷には、池がある。池には必らず金魚や鮒がゐる。大雨があると池が溢れて、時には大きな鯉までが、喜びのすくない陋巷の私たちをまるでさうして喜ばせようとするかのやうに、池から溝へと泳ぎ出てくるのだ。(中略)さう容易に金魚を買へない陋巷の子供たちは、その代り溝からただでしやくつて取れる楽しみを与へられてゐた。(中略)大人までが四つ手を持ち出し、馬穴を鳴らして駆け出した。
 
 駄菓子屋には、大事な金魚の餌としてボウフラをとるため竹の輪に緑の蚊帳地を張って柄をつけたものが売られていたというから、子どもから大人まで参加する一大イベントだったようだ。大雨は、隔絶していた坂上と坂下の交わる数少ない機会だったのである。
 もう一つ、坂上と坂下が交わるのは祭りのときだった。熊野神社の夏祭りは、島崎が「最も活気のある楽しい季節の一つ」(島崎 二〇一三)と述べているほど大変な賑わいだったようだが、その賑わいは決して楽しいだけでなかった。水上によれば、熊野神社の祭礼では町の若衆が神輿を担いで坂上の屋敷にも酒気を吐きつつやって来たという。坂上の屋敷ではご祝儀を用意して町の若衆を待っているのだが、ご祝儀が少ないと「神輿の先棒で板塀を滅茶々々に衝破られた」というのである。江戸時代から続く風習だったのだろうが、坂上に新しく越してきた人々は戦々恐々としていたようだ。私は「我家も同じ目に逢はされはしないかと限りなき恐怖を以て私は玄関の障子を細目にあけながら乳母の袖の下に隠れて恐々神輿が黒門の外の明るい町へと引上て行くのを覗いたものだつた」と回想している。
 ただし、お花見と同様に、お屋敷の子である私が町の子らと一緒になって祭りを楽しむことはなかった。私は「女中に手を曳れて人込におど/\しながら町の片端を平生の服装で賑はひを見物するお屋敷の子は、金ちやんや清ちやんの汗みづくになつて飛廻る姿をどんなに羨しくも悲しくも見送つたらう」とも記しているのである(水上 一九四一)。