なお、たとえ生活文化が隔絶していても、坂上の人々も坂下へ買い物に行っていた。そのような意味で、坂下の繁華街は、坂上と坂下が交わる空間であった。
麻布区内の繁華街といえば、麻布十番や飯倉町であった。
区内で大繁盛していた「武蔵野せんべい」の跡取りとして育った喜劇俳優の榎本健一(一九〇四~一九七〇)は『喜劇こそわが命』で、明治期末頃の麻布十番について「芝居小屋はあるし寄席もあるし、夜店は毎晩出るなど、東京でも屈指の盛り場だった」と回想している。大正一一年(一九二二)刊行の『遊覧東京案内』をみると、麻布十番には福槌亭(麻布新網町)と一ノ橋亭(一ノ橋)の二席があった(区内にはほかに、麻布亭〈麻布三河台町〉と寿亭〈麻布谷町〉の二席があった)。さらに、第三福宝館という活動写真館(区内にはほかに麻布三河台町に麻布不二館があった)もあったほどだから、その賑わいの様子がうかがえよう。
麻布十番は子どもたちにとっても魅力的な盛り場だったようで、榎本は次のようにも記している。
麻布十番というところは、なかなか賑やかな街で、オモチャ屋にしてもずいぶん豪華なものを店頭に並べていた。たとえば、舶来ものでアルコールで走る機関車や、写真機などで、子供にはたまらない誘惑だった。
水上も繁華な下町にあった「其頃の人々には未だ見馴れなかつた西洋の帽子や、肩掛や、リボンや、種々の派手な色彩を掛連ねた」長崎屋で、アメリカからやってきた上等舶来の押絵に目を輝かせ、長崎屋の筋向の玩具屋では舶来の洋刀、喇叭、鉄砲を買ってもらったと回想している(水上 一九四一)。
麻布十番などで珍しい舶来品のオモチャが多く売られていた理由として、一つには、坂上に華族や政府高官などの住む屋敷町があったことが考えられよう。そして、もう一つ、麻布区に外国公使館が多く集まっており、麻布三河台町(現在の六本木三~四丁目)から麻布龍土町(現在の南青山一丁目、六本木七丁目)へかけて西洋人の住宅が多かったこともあったのではないだろうか。麻布区は郊外であったがゆえに、後述する赤坂区と並び、欧米文化の影響を早くから色濃く受けた地域でもあったのである。