龍土会

347 ~ 347 / 405ページ
 その象徴の一つが、明治三三年(一九〇〇)に麻布龍土町で開店した「龍圡軒」(現在の六本木七丁目)であろう。
 龍圡軒は当時珍しかったフランス料理を出す店で、自然主義文学の発祥の地ともいわれている。ここで国木田独歩や田山花袋、島崎藤村、蒲原有明らが一時期は毎月のように会合を開いていた。蒲原によれば、明治三五年頃に麴町の「快楽亭」という西洋料理店で会合を開いたことを発端とし、その後、外国文学への憧れもあってフランス料理ということが若き彼らの興味を惹き、この店に会合の場所を移したという。明治三八年頃より龍土会と呼ぶようになったようだ。いくつもの党派に分かれていた当時の文壇にあって、龍土会は「謂はば一の微小なる移動的倶楽部の如きものであつた」(蒲原 一九三八)という。よく会に参加していた小山内薫は当時の様子について、「龍土会では、酒がはずんだ。議論はしょっちゅうのこと、喧嘩も折々はあった。現に、私も会員の一人に杯を投げつけられて、温厚な柳田(国男―筆者)氏を困惑させたことがあった。併し、あの時分は、みんなお互に遠慮をしなかった。作の上のことでも、生活の上のことでも、忌憚なく物を言い合った」(小山内 二〇一三)と回想している。しかし、雑誌記者や新聞記者なども多くやって来て会の規模が大きくなり、大会を柳橋で開くようになるとだんだん衰えていったという。
 島崎は後年、田山に「まだあの頃は若かつたね、麻布くんだりまで押かけて行つたんだからね」(田山 一九一七)といって笑ったそうだが、先述したように島崎が飯倉町へ住み始めた頃には、麻布区も大きく変わり始めていた。