麻布の花街

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 麻布区の様子が変わった大きな理由の一つは、明治期末から大正期にかけて市内の中心部と路面電車でつながったことだろう。島崎が「十番はまた特殊な町だ。広い都会の中にはところ/\にあゝいう人の集まる中心地が出来る。電車の開通以来、飯倉一丁目から五丁目へかけての繁華はそちらの方へ移って行ったとも言われる」(島崎 二〇一三)と記しているように、鉄道の開通によって区内の一極集中化が進み、麻布十番はますます賑わいをみせていたようである。
 麻布十番のすぐ近くに花街ができたのも大正期に入ってすぐだった。大正二年(一九一三)一〇月、網代町(現在の麻布十番二丁目)から山元町(現在の元麻布一丁目)にかけて花街ができたが、開業当日の様子は待合茶屋二軒、芸妓屋七軒、芸者一四人、半玉六人と小規模なもので、翌年刊行の『大正博覧会と東京遊覧』では「本区には旅館飲食店の聞えたるもの殆ど無く僅かに永坂の更科其他山元町新開地に多少の小料理あるのみ」と記されている。
 しかし、麻布の花街は東京市一五区内で最後に開業した花街であり、これで東京市内すべての区で花街が置かれたこととなった。そのような意味で、この花街の開業は、大東京市の完成を象徴するものであり、麻布区が古武蔵野の情緒を失い都市化する将来を予感させる出来事でもあった。実際、麻布区は関東大震災の被害が少なかったことから、震災後に大きく発展し、花街も昭和五年(一九三〇)刊行の『東都芸妓名鑑』では、「芸妓屋四十九軒、出先待合五十九軒、芸妓数百弐十三名を数ふ益々盛大を加ふるものと考へらる」まで拡大するのである。