麻布区が大きく変わったもう一つの理由は、大正一二年(一九二三)九月に起きた関東大震災であった。東京市内では深川や神田など東方から芝区にかけて甚大な被害が生じ、多くの避難民が西方へ移ってきたのである。劇作家の岡本綺堂もその一人だった。岡本は麴町の住居が焼失し、大正一二年一〇月から翌年三月まで麻布十番に避難したが、その際に書き留めた「十番雑記」で次のように記している。
私達のやうな避難者がおびたゞしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましてゐる。殊に歳の暮に押詰まつて、こゝらの繁昌と混雑は一通りでない。あまり広くもない往来の両側に、居附きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列んでゐるあひだを、大勢の人が押合つて通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢かれるか、路ばたの大溝へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは正に数百年のむかしの夢である。
麻布区には狸穴(まみあな)町や狸坂など「狸」にまつわる地名がいくつもあるが、岡本が麻布十番に避難した頃にはすでに名物となっていたようで、「坂の名ばかりでなく、土地の売物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフヱー・たぬきと云ふのも出来た。子供たちも『麻布十番狸が通る』などと歌つてゐる。狸はこゝらの名物であるらしい」と推察している。しかし、岡本が指摘したように、麻布十番はもちろんのこと、麻布区内でも狸が通ったのはいつまでであったろうか。
本項で何度も紹介した島崎の「飯倉附近」は、昭和三年(一九二八)に刊行された『大東京繁昌記』に所収の一編である。島崎は当時の麻布区について、「あるところは一廓を成した新しい住宅地のごとく、あるところは坂の上下にある村のごとく、鶏の声さえ谷のあちこちに聞こえるようなのが、この界隈の一面である。野鳥のおとずれさえこゝではそうめずらしくない」と紹介しているが、「同じ都会の中でもこんなに町の動いていることは、東西共に変りはないようだ」とも記している。東京市の郊外であった麻布区にも都市化の波は大きく押し寄せており、梟の鳴声が聞こえなくなるのも時間の問題であっただろう。
(後藤 新)