赤坂区の特徴

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 赤坂区について、小説家の白柳武司(秀湖)は大正三年(一九一四)に刊行した『強者弱者』で、「電車に乗りて眼を楽しましめんとせば、銀座四丁目より青山行に乗る可し。美人にもあれ醜婦にもあれ、扮装の華美なる他線に類を見ずと、斯言蓋し真なり。果然、麻布赤坂は山の手に於ける奢侈の中心地なり」と記している。大正期、赤坂区は、すでに山の手の高級住宅地というイメージを定着させていたようである。
 しかし、このような赤坂区の発展は、明治期より急拡大を続けていた東京のなかでも、異例のスピードであったらしい。例えば、山口(狐剣)は大正七年に刊行した『東都新繁昌記』で次のように記している。
 
 併し何といつても赤坂の発達は恐ろしい、明治の初年迄、狐や、狸が昼も出て遊んだといふ一丁目、二丁目には洋館櫛比し、水田があつて夏は蛍の名所であつた乃木邸のあたりは権門勢家が立ち列んだ。(後略)赤坂表町から渋谷宮益町へ通ずる往還、青山南町、五丁目、六丁目、青山北町五丁目は、元百人町と云つて百人組の軽身が住んでゐた。(中略)此の百人組の旧居が鉄門いかめしく、黒塗塀巍然たる貴族の家に変化せしは、西南戦争過ぎからのことであつた。(中略)青山には権門勢家がある、否大礼服、山高帽の御役人がある。(後略)赤坂の気分は寧ろ可愛い娘を学習院の女子部に送る貴族院議員徳富蘇峰式に出来てゐる。
 
 山口によれば、明治初年の赤坂区は、昼間から狐や狸が野を駆け回るような地域だったのである。
 そのような赤坂区のイメージは、明治後期になってもさほど変わっていなかったようだ。明治三四年(一九〇一)から赤坂氷川町(現在の赤坂六丁目)に住んだ国木田独歩は「夜の赤坂」で、東京市内にはいくらでも田舎があるが、「其中にも赤坂はさみしい処で、下町則ち京橋や日本橋に住んで居る者は、狐や狸の居る処と心得て居る位、実際又狐狸の居さうな処がいくらもあるのです」と記している。
 なお、国木田が赤坂区をさみしい処と捉えた理由を考えるうえで、赤坂区の地勢は無視できない。赤坂区も麻布区と同様に、区の大半を武蔵野台地に覆われている。台地の上は、早くから高級住宅地として発展しており、屋敷町となっていたのである。国木田は「夜になると赤坂で、賑かな処と言ふべきは、たゞ田町、一木、新町、先づ此位で、あとは極く淋しい処ばかりです」と記しているが、赤坂区でも賑わいをみせたのは低地であった。赤坂田町(現在の赤坂一~三丁目)・赤坂一ツ木町(現在の赤坂四~五丁目)・赤坂新町(現在の元赤坂二~三・五~七丁目)は、麴町区から外濠に架けられた弁慶橋を渡った辺りに拡がる地域である。