弁慶橋

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 弁慶橋は、明治期になって架けられた木橋だった(図5-1-3-1)。
 山口によれば、弁慶橋が最初に架設されたのは明治五年(一八七二)だという。山口は『東都新繁昌記』で、浅草の見世物に出ていた大きな象が渡り初めをした際、重すぎたために橋板を割ってしまったのだと記しているが、真偽のほどはわからない。一般的には、弁慶橋は明治二二年に架設したとされている。
 それまで、郭内から赤坂区へ抜けるには、屈曲した道を通り赤坂見附の門を通るしかなかったから、弁慶橋が架けられたことによって交通の便はだいぶよくなったようだ。
 弁慶橋は純江戸式の木橋で、欄干には主に江戸時代に鋳られた一ッ橋、神田橋、筋違橋、浅草橋、日本橋の青銅製の擬宝珠(ぎぼし)が置かれていた。この頃、純江戸式の木橋は東京市内でも大変珍しく、その優雅さが話題になったが、それだけでなく橋からの風景も素晴らしかったらしい。例えば『新撰東京名所図会』麴町区之部では、弁慶橋からの風景について次のように称賛している。
 
 橋上にて四方を見渡せば西に紀の国阪の峻阪車馬行人絡繹たるを望み、東には北白川、閑院両宮の高閣屹立し塘提の老松亭々として雲際に聳へ、南は近衛三連隊兵営より星ヶ岡公園を見晴し殊更花時赤阪門外並に清水谷の桜花爛漫たるの頃此橋上を過れば宛然図画中に入るの観ありて光景言はむかたなし
 
 桜の季節はいうまでもなく四季折々の草花が楽しめ、市内でも屈指の景勝地となっていたのである。田山花袋も弁慶橋周辺の景色を愛した一人で、『東京の三十年』では、変わりゆく外濠の景色について次のように記している。
 
 外濠の電車の通るあたりも、全く一変した。溜池―その岸には、春はなづ菜、根芹などが萌えて、都人士が摘草によく出かけて来たものだが、それが埋立てられて、今の賑やかな狭斜街になり、青山御所の向うには、大きな東宮御所が建築された。この濠端の花の見事なことは、今は東京名所の一つに数へても好い位だ。弁慶橋の柳の緑、春雨の烟る朝などは、何とも言はれない情趣に富んでゐる。
 
 弁慶橋の架かった外濠周辺は、急激に変化する赤坂区のなかで、江戸時代の情緒を残す憩いの場であったようである。
 

図5-1-3-1 「弁慶橋」

『風俗画報189号臨時増刊 新撰東京名所図会 第18編 麴町区の部 下巻1』(東陽堂、1899)、山本松谷画『明治東京名所図会』(講談社、1989)所収