赤坂で最も賑わいをみせていたのは、国木田も記していたように、花街からほど近い赤坂一ツ木町だった。『新撰東京名所図会』でも「兵営あり、寺院あり、学校あり、邸宅あり、又繁華の市廛を有するは、赤坂一ツ木町なるべし」と紹介されている。
赤坂一ツ木町にあった、六地蔵の名で親しまれる浄土寺の縁日は、ことに大変な賑わいだったようで、国木田はその様子を「夜の赤坂」で次のように記している。
赤坂区中の最も賑かな一木町にあるだけに随分六の日の晩はにぎはふのです。地蔵の境内には見世物が出て油煙をすさまじくあげながらドンチヤンと囃し立てゝ客を呼ぶ。一木町の両側には種々の露店が出る。氷川町、仲町、丹後町、表町、新坂町辺の老若男女がぞろぞろと出かける。山王台の上から此光景を見下すと恰度田舎のお祭のやうです。曇つた晩などカンテラの光が雲に映つて遠くから見ると火事かと思はれるばかり。連隊の兵士、田町の芸者、小役人の細君、会社員、娘、明治の江戸ッ子、種々雑多の人で、一口に言ふと上流社会を除いた其以外の東京人士の標本は悉く縁日の夜に其御面相から風俗から流行まで陳列するのです。
赤坂区内の寄席の席数をみると、大正一一年(一九二二)刊行の『東京遊覧案内』では、一力亭、富川亭(新町)、豊川亭(一ツ木通り)、富岳座、菊寿亭、二山亭(青山北町)の六席が紹介されており、とくに赤坂一ツ木町を中心に三席が固まって置かれている。なお、赤坂青山北町にも三席ができているが、ここは青山練兵場に面した町で、近くに陸軍大学校や近衛歩兵第四連隊、第一師団司令部などがあり栄えていた。
国木田は当時の寄席の様子についても「夜の赤坂」で記している。国木田は二人の妹を連れて赤坂田町の一力亭に通っていたが、この席は「常に講談ばかりで落語や義太夫はかゝつたことのない席で、其客とする所は東京で所謂職人ばかりです。即ち労働者」だったという。では、寄席の様子はどのようであったのだろうか。
僕が妹等と行く寄席の内部をお話すると、客は殆ど男ばかり、そして其行儀の悪いのは驚くばかりで、十人の二三は身体を横にして居るのです。中にはすや/\と眠つて居て、時々張扇の音に目を覚し夢現に宮本武蔵、国定忠次の伝記を聞いて居るのです。そして夜の十時か九時半頃まで、兎も角も罪のない時間を消すのです。
たしかに、お世辞にもお行儀がよいとはいえない。花街とは異なる、もう一つの赤坂の姿であったといえよう。
しかし、新時代の空気は花街のみならず、他の娯楽にも影響を与えていた。赤坂区における人々の娯楽は寄席ばかりでなくなっていくのである。例えば、赤坂溜池町には明治二二年(一八八九)、牛込区から「都座」が移転してきた。この劇場は、その後、福禄座、赤坂座、日吉座、新市村座と改称を重ねたが、明治二八年より「演伎座」となり、人気を博していた。なお、演伎座は大正一二年(一九二三)の関東大震災によって焼失し、翌年に再開するが、大正一四年に再び火災を起こし焼失してしまう。